TITLE : 素粒子論の世界 物質と空間の窮極に挑む 講談社電子文庫 素粒子論の世界        物質と空間の窮極に挑む   片山泰久 著 はしがき  この本を書いたのは,人間が物質とその背後にある空間との謎に挑んでどんな努力を積みあげているかを,多くの人々に理解していただきたいと思ったからです。  これらの努力の結果は素粒子論という学問にまとめられているわけですが,その学問は決して完成されたものではありません。その内容は人間が生きているかぎりつぎつぎと書き直されていくものでしょう。素粒子論は,素粒子についての学問に終わるものではなく,素粒子を足がかりとして自然の根源を探ろうとする人間の思索と努力の結果であるからです。  人間の思索が進み努力が積まれれば積まれるほど,学問の内容が変わってくるのは当然です。現在,私たちは自然の根源を探るたくさんの装置や方法をもっています。古い時代の人々が頭のなかだけで自然を探ろうとしたのとは違い,いまでは思索の結果はつねに実験によってためされ,正否がきびしく判定されます。そのために,私たちの思索は見事な成果をあげるとともに,また次第に限定された方向に向かうようになってきました。といっても,科学者たちはただ一通りの考えかたを進めているわけではありません。いま有力な説のほかにも,まだまだいろいろな考えかたができるだろうと思います。  この本を書くにあたって,そのことを一番に考えました。そこで,いままでこの種の本がとっていたスタイル,つまり現在の知識を展望し解説するというスタイルとは全く違えて,私たちがどのようにしてその知識に到達したかを成功も失敗も含めて語ることにしました。成功して得られた知識だけが将来役に立つとは限りません。いままでのところ虚しかったと思われる努力も,いつの日か実を結ぶかも知れないからです。  この本は,素粒子論の知識を安直に学ぼうとする読者の要求には,残念ながら応えておりません。また,内容のうえでも素粒子論全体にわたっておりません。しかしそのかわり,これから自分の力でいろいろな学問を切り開いてゆこうとする人たちにとって,多分,多少お役に立つものになったのではないかと思っています。もちろん,一般の方々にも,現代科学の理論がどのようにして追求され,できあがるかを,ひとつのドラマとして読んでいただけるだろうと思っています。そのために,ともすれば難しくなりがちな表現には極力気を配りました。科学の知識が,ひとにぎりの専門家だけのものであってはいけないと考えるからです。  この本の登場人物は,大部分が現在でも第一線で活躍している人たちです。その人たちが学問を創る局面でどういう考えかたをし,どのようにそれを具体化していったかは,余人には正確にわからないことです。また,決定的な瞬間に対する当人の記憶もそれほど確かとはいえないでしょう。そんな事情から,執筆には,その時こうであろうと思われる想像を加えなければなりませんでした。その点については,重大な誤解があれば関係する方々から御注意いただけるとあり難いと思っております。  この本をほぼ書き終わった頃,登場人物のなかでも最も重要な一人である坂田昌一先生の訃報(ふほう)に接しました。坂田先生が素粒子論で果たされた役割がどれほど大きいものであったか,なお長寿を全うされるならばどれだけこの本が書きかえられたかと,心から残念に思っています。また,坂田先生にかぎらず,日本の物理学者が素粒子論に果たしてきた役割は大きなもので,この本もそこに重点がおいてあります。これからの人々がさらにその成果をのばすことが,諸先輩にむくいるひとつの道であろうかと思います。  終わりに,この本をつくりあげるために努力をおしまれなかった講談社・末武親一郎君と,カットを担当された泉谷久美子さんに感謝致します。   一九七一1971年 春 京都下鴨にて 片山泰久   もくじ I 根源物質 II 物質生滅 III 素粒子変転 IV 中間子誕生 V 新粒子出現 VI 素粒子模型 VII 無限大 VIII 非局所場 IX 素領域 X 素粒子論は何を教えるか 素粒子論の世界   物質と空間の窮極に挑む -------------------------------------------------------------------------------  1 根源物質 ------------------------------------------------------------------------------- 物質の謎を追っていくと,根源物質という考えにたどりつく。それは古代人の思索が歩んだコースである。しかし現代においても,素粒子を手がかりとして,私たちは膨大な労力と莫大な費用をそそいで同じ道を進んでいる。 トップ・ニュース  一九五八1958年(昭和三三33年)二2月二×2X日の朝のことである。出勤前のあわただしい時間をさいて新聞をひろげた人々は,奇妙な記事が第一面を占領しているのをみて驚いた。大見出しのかたわらには,変な抽象芸術のような記号が踊っている。どうも数学の方程式であるように思われるのだが,何とも判読できそうにない。  見出しには,“ハイゼンベルク教授,宇宙の統一理論を提唱”とあった。あるいは,“ハイゼンベルク博士,宇宙方程式を発見”と書いた新聞もあったかもしれない。ともかく,宇宙ということになると誰もが多少は興味がある。多くの読者は,バスの時間を気にしながらも早速記事に目を通してみた。  ——ノーベル物理学賞受賞者,西独のハイゼンベルク教授は,二五25日ゲッチンゲン大学で「素粒子理論の進歩」と題する講演を行ない,そのなかで,すべての物理学上の法則を例外なく説明する基本方程式を発見したと発表した。ハイゼンベルク教授は,さらに次のように述べた。現在の研究段階では,方程式の正しさは最終的に証明されていない。しかし,もし理論の正しさが証明されれば,宇宙の全構造を説明できるこの理論は,すべての基礎物理学理論にとって最終的な解答となるであろう。今後すべての物理学研究は,“深さ”よりもむしろ“広さ”を求めることになろう。——  残念ながら,この記事からは見出し以上のことはわからない。こんな複雑な問題を四六時中考えている連中もあるんだなと,なかば感心をし,なかば同情もして,もう一度その数学式を眺めてみた……というのが大方の読者であったにちがいない。彼らは,わからないことでかえって神秘的な魅力を感じ, 「宇宙とは,こんなものかな」  とつぶやくことで満足し,あわてて残りの味噌汁をすすった……。  ふつうの人には,このような宇宙の謎とか物理学の最新の成果とかという問題を,後であらためて考えてみるひまはなかったであろう。そんな迷想(?)をしていたことには,混んだバスには乗りこめず,遅刻して上役に睨まれるくらいがおちである。ともかく,それで近い将来の世界がどう変わるわけでもなく,自分にとってはどうということのない話……なのである。  こうして,このトップ・ニュースは,人々の頭のなかに長くは残っていなかった。 記者会見  話を,西ドイツの古都ゲッチンゲンに戻そう。というのは,そのニュースの火元がゲッチンゲン大学にあったからである。  大学には記者クラブのために一室が設けられている。記者クラブというのは各新聞社の記者のたまり場である。彼ら学芸部の記者たちは常時そこに詰めているというわけではないが,何か事あればすぐそこを通してメンバー全員に連絡がとれるようになっている。だが,今度のように講演者がドイツ物理学会の重鎮であってみれば,学校当局としても,記者クラブへ電話一本……というだけではすまされず,各新聞社や通信社へは丁寧な案内状がまわされた。 「今度の話はふつうの通俗講演ではなく,ハイゼンベルク教授が自分を中心としたグループで行なった画期的研究成果を発表するそうだ」  このニュースに色めきたったのは,科学担当の記者ばかりではなかった。社会部や政治部の記者でも,科学の進歩に無頓着では飯が食えない時代になっていたからである。  物理学の研究は,それがよそ目には非常にアカデミックに映るものであっても,実際にどんな大変な問題につながっていくか憶測がむずかしい。たとえば,原子力がそうだ。一九三四1934年(昭和九9年),ローマ大学でフェルミが,中性子を使って超ウラン元素を作っていることを或る新聞がスクープした。フェルミの実験チームは,元素に中性子を加えると,一段と重い他の元素ができることを発見したにすぎない。つまり,窒素に中性子を加えた結果酸素ができるというような具合で,周期律表の右隣の元素が誕生する。周期律表とは,大ざっぱにいって元素を目方の順に(正確には化学的性質によって)並べたものであるが,天然には九二92番目のウラン元素で表は終わり,その右隣は空席である。そこで,ウランに中性子を加えると全く新しい元素が作られるわけだ。ここが大きな焦点であった。  それはそれで物理学上の大発見だったかも知れないが,世のなかの大多数のひとびとにとっては,とりたててどうということのない問題に思われた。だが,この新聞ニュースにひじょうに驚いた人たちも何人かあった。そのなかのハーンとストラッスマンは,四4年後に,原子核分裂という予想もしなかった事実が起こっていることを確かめたのである。不幸にも,この成果は広島,長崎の原爆投下という形で世の人々にはねかえってきた。以後,新聞記者も守備範囲を広げておかなければ,どんな大問題を逃がすかも知れないという,当事者たちにとっては大変なことになってしまっていた。  こんな事情もあるので,ハイゼンベルクが重大な発表をするという情報に,いささか記者たちが緊張したのも当然である。  やがて当日,公式の講演を終えたハイゼンベルクは,上機嫌で,記者団の前へその姿をあらわした。六十60歳に手がとどこうというこの世界的物理学者は,ひとわたり会場をみまわしたのち,自分の生涯を思いだすかのようにして語りはじめた。 古代人の知慧 「先ほど講演を終わりましたが,もう一度皆さんのために話を繰り返しましょう。  私たち物理学者は,宇宙やそこで起きるいろいろな現象を,根本から説明できるようなものを探しつづけてきました。まず,その鍵として原子を考え,原子を理解する法則……量子力学をつくりました」  彼のネクタイピンが心なしか光ったように思えた。それは小文字のhを象(かたど)ったもので,量子を特長づける定数……そして,量子力学建設の立て役者,ハイゼンベルクの栄誉をあらわしていた。 「ところが,原子は中心にある原子核とそれを取りまく電子群とからできているだけでなく,原子核はさらに陽子と中性子との集団であることを知りました。そして,現在の私たちは,電子,陽子,中性子……と同じようなたくさんの種類の粒子があることを知っています。それらの粒子は,すべて素粒子とよばれていますが,そういうものは何十も,あるいは何百あるかも知れないのです。  いまから三十30年ほど前には,素粒子は三3種類しか知られていませんでした。つまり,物質の最小単位としての電子と陽子,それに光や電波の最小単位としての光子です。この最小単位という概念は,これ以上に小さな部分に分割できない場合にはじめて意味があります。ところで,それから現在までの三十30年間に,いろいろな現象を説明するために,しだいに数多くの別種の素粒子が登場してきました。中性子,中性微子,パイ中間子,ミュー中間子,……それに新粒子と総称される一群の寿命の短い素粒子などがそれで,まだまだ将来たくさんの素粒子が登場するかも知れない状況になりました。  これは大変困ったことに思われます。というのは,最小単位を考えた動機は,そこからすべての自然現象を説明するためだったわけですから,最小単位のものは数が少なければ少ないほどよかったので,結果は反対になったといえます。そこで,素粒子は果たして本当に最小単位なのだろうかという疑問がわいてきました。その問いに答えようとするには,素粒子が分解できるかどうかをしらべるのが早道です。こうして,素粒子に高いエネルギーを与えて,お互いを激しく衝突させて分解させようとする実験が計画されました。ジュネーブで現在建設中の大型加速器(PSPSシンクロトロン,一九五九1959年運転開始)の目的のひとつはそれです。まだ最終的に確かめられていないので断定はできませんが,多分私たちは素粒子の分解について余り多くの期待は抱かないほうがよさそうです。つまり,素粒子は衝突によって別の素粒子に変わることがあっても,その部分に分解はしないだろうと思います。  すると,この結果として,最小単位が非常にたくさんあるのを認めることになります。では,宇宙におこるさまざまな現象を説明するために根本にさかのぼる道は,これ以外にないのでしょうか。たくさんの素粒子があるというだけで,その背後にはそれらを,そして宇宙を支配する法則というものはないのでしょうか。私はそれに答えを与えようとしたのです」  話がいよいよ核心に入ると,記者団のなかにも緊張の空気が流れる。 「私の考えは,古代ギリシアの自然哲学者たち,とくにプラトンの考えと似ています。御承知のように,イオニアの思想家ターレスはこの宇宙の成り立ちを考え,そのもとになるものとして“根源物質”を想定しました。彼は,自然のありとあらゆるものが根源物質から作られるためには,根源物質は元来どんな形にもなれるもの,それ自身が特別の形をもたないものと考え,具体的には水をとりあげました。私は根源物質が水であるとは思いませんが,この考えかたは正しいものでありましょう。私たちが現在考えている素粒子は,互いに反応しあっていろいろ別種の素粒子に変わっているわけですが,この様子はまさに,その背後に共通な物質があると考えるにふさわしいように思われます。  根源物質が宇宙に姿をあらわすには何か形をとらなくてはなりません。プラトンは,宇宙に存在するものは美しい形をもったものだと考えました。つまり,どんな形のものも存在できるというのではなく,適当な理由のある形をとるものだけが存在を許されているというわけです。私は,素粒子とはそういうものではないかと思います。根源物質は,特別に理由のある形を通して宇宙にあらわれていて,その最小なものが素粒子となっているのではないでしょうか。こう考えると,素粒子が素粒子に変わることができても,部分に分解しないという事実もわかるような気がします。  そこで,宇宙の基本法則として,究極的に根源物質がどんな法則にしたがうか,そして,その結果としてなぜ素粒子という特定な形が存在を許されるのかの答えを求めることが必要になってきます。私たちのグループは,長い間の研究のすえ,この解答らしいものを求めることができました。  私たちは,根源物質を支配する方程式を求めました。この方程式は,現在の実験状況から見て充分満足のいくものに思われます。つまり,この方程式を解くことによって,いろいろな素粒子が導かれ,さらに宇宙のさまざまな現象が結局これから説明できるでありましょう。もし,この方程式が正しければ,今後私たちのやることは,根源物質のそのまた奥をしらべることではなく,この方程式からどのようにして素粒子が導かれるのか,さらに宇宙のすべての現象はどう理解されるのかを検討することになるでしょう」  ハイゼンベルクはこう結論して話を終えた。 宇宙方程式  記者の一人が質問をする。 「すると,先生は宇宙を支配する方程式を発見されたというわけですね」 「そういってもよいでしょう。しかし,注意していただきたい点は,この方程式が得られたからといって宇宙のすべての現象がわかってしまったとはいえないことです。宇宙に起こるすべての現象は,基本的には素粒子の行動にさかのぼれると,物理学者は考えています。素粒子を支配する法則を知ることが,結局,宇宙全体を支配するという意味でなら,あなたの問いの答えはイエスです。しかし,たとえば生物体をとりあげてみると,そこにはそこで解明されなければならない特有な現象と法則があります。生物体が巨大分子から成り,その分子は電子に左右され,電子の法則がわかればすべて終わりといった単純な問題ではないでしょう。もちろん,電子を支配する法則を知る必要がありますが,その上でもなお問題は残っています。私どもの方程式は,その場合にも直接答えを与えることができるかと聞かれたとすれば,その答えはノーです」  別の記者がいう。 「お話の宇宙方程式とはどんなものでしょうか。私にはとうていわかりそうもないんですが,参考までにおがませて下さい」  彼の正直さに一同はどっと笑った。ハイゼンベルクも笑顔になり,立ち上がって黒板に向かった。それはやたらとギリシア文字が並んだものであったが,皆はまるで複写機のように,それをうつし始めた。 「式の説明は遠慮させていただきます。近いうちに論文の印刷が終わる予定ですから,それをお届けしましょう」  緊張がとけて記者の質問は活発になってきた。 「宇宙にはいろいろ謎があるが,それをどんどん掘りさげていくと際限はないと思われていた。ところが,先生の方程式のおかげでそういうことはなく,これで終わりとわかりやっと不安感から解放された……といった感じですね」  また場内に笑い声が起こった。彼も笑って今度は答えようとしない。 「これからの素粒子の研究は,奥へ進まずに横に広がるという先生のお考えですが,そうすると前より幾分魅力がなくなりますね」  別の記者の質問に,ハイゼンベルクは首を左右にふる。 「原子の世界を追求して,それを支配する法則……量子力学が発見されました。それで,原子・分子の現象を扱う学問,化学や固体物理が魅力のないものになったかといえば,それは全く逆でますます面白くなり,豊かな世界が開かれてきました。生物体に関係する学問,とくに生物物理とよばれる分野は,次から次へと魅力に富んだ問題を提供しています。私はもう少し若ければ,きっと生物物理の研究を始めていたことでしょう。  同じことは素粒子物理についてもいえます。今日お話した私の考えは,近い将来その正否が確かめられるでしょうが,幸いこの考えが成功し基本方程式の正しさが証明されたとしても,まだまだそのあとに非常に魅力ある問題が生じてくるものと思います。多分ジュネーブの大型加速器も近く活動を始める筈ですから,皆さんも直接それを知る機会に恵まれるでしょう」  記者団の代表が口を開いた。 「では最後に質問します。先生は原子の法則である量子力学をおつくりになった。そして今度は宇宙の根本法則ともいうべき宇宙方程式を発見されたわけですね。そのどちらに,自信をお持ちですか」 「昔と今,二四24歳と五七57歳とでは較べられないが,どちらにも自信があり,また自信もなしというところでしょうね。量子力学はその後だんだん確かな地位をもってきたことは,御承知の通りです。ここで宇宙方程式……という名を使うとすれば,これは今後どう確かめられるかわかりませんが,現在の状況について,最も自然な解答になっていると思っています」 「どうもいろいろあり難うございました」  記者たちは一せいに場外に飛びだしていった。外は二2月の空気が凍っている。ドイツの二2月はカーニバルの季節。踊り歌う人々の声が聞こえるようである。寒かろうが,人々が踊ろうが,取材記者の活動はこれからが大変である。フォルクス・ワーゲンがいくつも,あちらこちらにと走り出した。 古い問い・新しい答え  新聞社では,取材班から持ちこまれた情報によって,学芸部が動きはじめた。物理学の最新の情報をどう扱うかは大変厄介な問題で,担当のA記者とデスクはこれをトップ記事にすべく,作戦を立てて整理部にもちこんだ。  毎日のことではあるが,翌朝の新聞でなにを頭にもってくるかは社の権威と性格に係わるから,かなり高度の判断が必要になる。 「トップに持ってくるという理由は何だね」  整理部の主幹は質問する。 「何というか,こういう浮き世ばなれした記事が大きく出てもよいのじゃないかと思ってね」  デスクはややはぐらかした答えをした。まず小手調べだ。若いA記者はあわててつけ加える。 「つまり,いつも読者にとってなまなましい事件を提供するだけが新聞の使命ではなく,人類の永遠の望みにつながるようなものを報道するのも必要ではないでしょうか」 「学芸部はいつもそういう主張をするが,トップにするにはそれだけの理由では不足だ。ハイゼンベルクは世界的な物理学者だということはわかっているが,今度の理論に対する専門家の評価はどうだろう」  A記者は答える。 「正直いって賛否両論ありますね。コペンハーゲンの原子物理学の大御所ボーア博士は,これは革命理論としては常識的でクレージーな点がないといっている。しかし,大体賛成といった調子です。一番強固な反対者はチューリッヒのパウリ教授です。彼は,最初この理論に協力して連名論文の草稿まで作ったそうですが,急に喧嘩わかれしてしまった。いずれはなばなしい学問論争が起こるでしょうが,どの点がパウリの気にいらないのか,われわれにはわかりません」 「それじゃ,賛否なかばと見たうえで,敢えてトップにおすわけか」  主幹は今度はデスクに念をおす。 「実はこういう考えなんだ。教授のいう根源物質のアイデアは,遠く紀元前六〇〇600年頃のターレスにさかのぼれる。彼が宇宙を統一的に考えるために根源物質の考えに達し,万物は水からなるといいだしたのは知っているだろう。宇宙が存在する以上,それを統一的に理解できる原理があるはずだ,と彼は考えた。これは,それ以後に続くギリシア自然哲学の歴史のなかにずっと流れている精神だと見てよいだろう」  整理部の主幹も,それは百も承知といわんばかりに口をはさむ。 「そのことは僕も考えているよ」 「それじゃ話がしやすい。そこで僕は二つのことを自問してみた。ターレスから原子論者デモクリトスまでの歴史は,実はアリストテレスが書いた本のおかげでわれわれが知っているにすぎない。かりに,ターレスの時代にわが社があったとしたら,アリストテレスと同じように,この重要な意見を大々的にとりあげたであろうか,というのが一つ。次に,アリストテレスはデモクリトスたち自然哲学者の説に反対するために本を書いたわけだ。反対者はふつうなら,自分に都合のよいように相手を書くか,都合の悪いものは無視する。ところが,彼はそうせずに忠実な紹介をやった。イオニアの一商人ターレスの根源物質の考えなど何の根拠もなかったから,無視しようとすればできたかも知れない。それが行なわれなかったのはなぜか。きっと非常に多くの人々がそのことに関心をもっていたか,彼が非常に重要な問題と考えたからだろう。  結局,こういうことになるのではないか。宇宙がどうなっているか,それを支配するものは何か,という問題は,多分アリストテレスが書き残すよりもずっと前の時代から,人類が考えつづけてきたもので,その一部がギリシア時代に思想として表面にあらわれ,なお現代の物理学者の探究心をあおっている。それは,人間にとって生きつづけるかぎり問いつづけなければおられない重大な問題,つまり人間を含めて宇宙の究極的な立脚点は何かという問題につながっている。だから,これらの問いは非常に古いが,いつの時代にも新しい答えが望まれている。しかも大衆によってだ。科学の進む方向は,決して大多数の人々の理想や意志と無縁ではない。  そこでだ。わが社がギリシア時代にあっても現代にあっても,新しい答えらしいものを知ったならば,同じように,それを大きな声で報道する義務がある,という結論になる……」 「わかった,わかった。わかりましたよ。できればその宇宙方程式も目立つようにしてのせてみよう」  とうとう学芸部のデスクの主張は通った。各新聞社での決定はまちまちであったが,ほぼ似たような状況が生まれた。こうして,ハイゼンベルクの宇宙方程式は,宇宙よりも何よりも,まず全世界の新聞を支配することとなった。 別の道  京都の二2月は,吉田神社を参詣する桃割れ姿に始まる。既婚の女性が娘時代にかえった装いをすることから,人はこれをお化けとよぶ。一種の珍習であるが,早春をほのぼのと感じさせる。  一九五八1958年のその春には,K大学の湯川記念館にもうひとつの珍事が起こった。南に面した三3階の研究室で読書をしていた研究所員は,急に入ってきた訪問者にびっくりした。それは湯川教授であったのだが,彼が三3階までやってくることはめったになかった。その上,これもめったにないことで,息がはずんでいる。 「先生,何か急用でもありましたか。お電話下さればこちらから参りましたのに……」 「いや,ここのほうが都合がいい。実は,ハイゼンベルクがとうとう新理論を発表したというニュースが入ってね」  研究所員のK氏は,先生多少あわてているなと感じた。 「別に変わったところがありましたか。われわれは,ゲッチンゲンのグループに属しているY君から,前よりいろいろ内容を聞いて予想していたわけですが……」 「それはそうだし,私も新しい要素がつけ加わったとは思っていない。しかし,彼は宇宙方程式と名づけたようで,何かそれらしい確信でもつかんだのだろうか」  その頃,湯川を中心とした日本のグループは,ハイゼンベルクと全く違った観点から素粒子の統一理論の建設を目指していた。素粒子の背後に何かある。それは二つの理論に共通した出発点なのだが……そこから道はわかれる。おそらく,そのほかにもいろいろな進みかたがあるだろう。そして,どの道をとれば目標に行きつくのか,誰も知らないのだ。古代の自然哲学者たちも同じ状況にあった。ターレスの水の説に対して,火,土,空気,あるいはその組みあわせを考えた哲学者もあった。宇宙の根本を根源物質から考えるとしても,そういう材質にウェイトを置くよりも,その離合集散や変化に着目した学者もあり,形の意味を強調した思想家もあった。現在の私たちは,原子論と同じように,いろいろな思想の源をそれら自然哲学者たちのなかに発見するだろうし,またそれと同じようにいくつもの考えを共存させている。 「多分,ハイゼンベルクは,将来新しい素粒子がいくつ出てきても,あとは根源物質の方程式で説明できると割り切ったのでしょうね」 「しかし,この前,君に検討してもらったように,あの方程式だけではすべての素粒子現象の内容をもり切れているかどうかわからない。非線型の方程式という簡単にとけない場所に逃げこんだ感じだ。あんな藪のようなところに入れば,道に迷ってしまうと僕には思えるね」 「賛成です。その点で彼の理論には無理があるので,問題は残りますね。先生がお考えのように,最初からもっとはっきりと何があるかの内容をもてる形にしなければ……」 「そう決めつける必要もないが,僕らも頑張ってみようか」  今度は逆である。決めつけているのは湯川のほうだ。  ベルが鳴った。K氏は受話器をとり,すぐにおく。 「先生,記者諸君が先生の談話をうかがいに来ているようですよ」  ここにも,ハイゼンベルク理論がおしよせている。湯川はゆっくりと部屋へもどっていく。ハイゼンベルクはハイゼンベルク,湯川は湯川だ。わが道をいくべきだ。 巨大な怪物  それから十10年近い歳月が流れた。……  警報が鳴る。赤いパイロット・ランプがともり,にぶい唸りが聞こえ始める。観測室は臨戦態勢のような忙しさだ。マイクによってあちらこちらに連絡がとぶ。計器盤の上をランプの明滅が走りまわる。オッシログラフには白緑色の像が蛇のようにのたうちまわる。記録装置の数字はどんどん変わっていく。 「いま,二八〇280億電子ボルトの最高エネルギーに達した。陽子は,〇・五0.5キロメートルの円周を一1秒間に一〇〇100万回もまわっている」  Z博士はそばのA記者に耳うちをした。そういわれても,今日が初見参のA記者にとって,それがどんな意味をもつのかわからない。なにか得体の知れぬ巨大怪物が制御室の向こうでうごめいているといった感じである。  スイスのジュネーブ近郊メイランに,欧州原子核研究機関の怪物が誕生したのは,ハイゼンベルク理論の発表の翌年であった。A記者はあれ以来,一度はこの怪物を自分の目で確かめたいと思い,またあのニュースのあと始末もつけたいと願っていたのだが,思わず歳月がたっていた。  通称セルンとよばれるこの機関の怪物の名はPSPS,くわしくいえば陽子シンクロトロン。陽子を加速する装置である。直径二〇〇200メートルの周囲におかれた全長六二八628メートルの磁石の壁のなかを,陽子はほとんど光に近い速さでかけ回り,壁の間にあるとり出し口を抜けると,まっしぐらに目的物に衝突していく。 「しかし,陽子の加速そのものは下準備であって,それが目的物に衝突してからが物理学の研究のはじまりだ。だから,先程の制御室では物理学の実験がやられているわけではない。制御室と反対の……円周の外側で,びっくりするほどいろいろな実験が続けられている。その実験者に陽子という材料を提供するのが,制御室の役目なのだ。このセルンでは,現在二五〇〇2500人の人間が働いているが,そのうちの五5分の一1が物理学の研究に従っている。つまり,五〇〇500人の物理学者が一つの器械のまわりで,宇宙の根本法則をさがし続けているわけだ」  カフェテリアの椅子についてほっとしているA記者に,Z博士はセルン全体の様子を掴んでもらおうとした。 「この研究所は一九五九1959年に活動を始めたわけだが,十10年たった今でもそう規模は変わっていない。当時は,カリフォルニア大学のベバトロン,それに,すぐ直後に誕生したブルックヘブン国立研究所のAGSAGSとのトリオで,素粒子物理学の最先端の実験的成果をあげてきた。だから,セルンには世界各地の物理学者の出入りが多い。ここのコーヒーを味わった物理学者の数は莫大なものだ。セルンに集まる物理学者は,その国籍や所属機関に関係なく,ここで新しい研究チームを組み,考えつくありとあらゆる課題をえらんで,加速器に挑戦し,それぞれ大きな成果をあげていく。それらは,どれも,素粒子とは何か,宇宙の根本法則とは,といった問いに答えるために欠かせない研究だ。  こういう大がかりな研究機関は,ここや前にあげた装置ばかりではない。ソビエトではドブナの原子核共同研究所が,セルプコフやノボシビルスクの研究都市が,それぞれ巨大な加速器を活動させている。セルンでは,いまの倍のスケールをもった器械の建設が始まっているし,さらに世界全体の研究機関ができ,世界加速器が活躍するという日も遠くないだろう」  A記者は相手にいうともなくつぶやいた。 「しかし,こういう大装置をもつ研究機関をつくり動かすということになると,各国の政治・経済問題が微妙に関係するだろう。しかもそれをおいても国々の充分な理解がなければならないように思われる。その困難のなかで,計画は次々と出現している。そう考えると,たとえ巨額を投じても宇宙の根本を探ろうとする人類の大きな意志のようなものが,巨大装置のかげに感じられるね」 「ある人にとっては確かに,これは大きな無駄づかいに見えるだろう。素粒子の探究は,人類にとって直接の利益を生まない。物理学者の好奇心を満足させるだけのぜいたくな浪費の対象かも知れない。素粒子を光に近い速さまで加速するだけで五〇50億円もかけ,さらに同じくらいの金額をそそいで,新種の素粒子の存在をつきとめたとしても,それによって人類はどれだけ物質的生活がゆたかになるのだろう。そんなことを考えると,疑問が生まれる。われわれでさえ,そんなことを時々思うことがある。しかし,私たちが生きているのは決してパンのためではない。君がいうように,人類には大きな意志がある。人間の精神的な生活を豊かにするため,その意志を果たしていくのが私たちの役目だと思うから,こんなことができるのだ」  A記者もその点はわかるように思う。 「宇宙を知りたい。それを支配する根本法則はなにか。それを探るために,人類は今や相手を素粒子にまで追いつめた。そこで,どんなに人手や物資や金額がかかっても,この線をさきに進めなければならないというのが,現在の状況だろう」  彼も,この研究所にたちこめる熱っぽい雰囲気に染まったようだ。 素粒子のさきにあるもの  A記者は,ハイゼンベルクが,一度セルンを訪ねたらと忠告してくれたことを思いだした。そうすると,教授の新理論がその後どうなったのか,ぜひとも知りたい気がしてくる。 「ハイゼンベルク教授が宇宙方程式を発表して十10年以上になるのだが,素粒子の探究はもはや奥へ進む必要はなく,これからは横に広がるだけだと,教授はいっていた。しかし,現在でもまだこんな大装置をつぎつぎ作っていかねばならないということは,素粒子の探求が奥に向かっているからなのか,横にひろがっているからなのか。つまり,教授の考えは正しかったのか,誤っていたのか,どっちだろうね」  A記者はおさえていた肝心の質問をきりだした。Z博士はしばらく黙って考えこんでいる。 「実のところ,彼の主張が正しかったのか間違っていたのか,残念ながらまだ答えが出せないのだ。しかし,十10年間の成果から,いろいろ問題になる点はあげることができる。  ハイゼンベルクの予想通り,現在でも素粒子の部分や破片は発見されていない。非常に高いエネルギーでの素粒子の衝突が,その後実験されたわけだが,その衝突によっても素粒子はせいぜい別種の素粒子になるだけであった。しかし,そのかわり,これらの実験で極端に短い時間だけ存在する共鳴状態の粒子とよばれるものが数多く発見された。これらの粒子まで数えると,素粒子は元素の数より多いことになる。この多様性を説明するためにも,ますます素粒子の背後に何かを,たとえば根源物質のようなものを考えなければならなくなっている。  そのうえ,素粒子の種類がふえて混乱が起こるだろうと考えたはじめの予想は全くの危惧で,別々に存在すると思われていたいろいろな素粒子が,実は見えない紐で結ばれているという事がはっきりしてきた。この紐を理解する道はいろいろあるが,ひとつの有力な見方として,素粒子がさらに基本的な基本粒子からできている,とする考え方がある。これは坂田が主張したものだが,その後多くの人々がうけいれるようになってきた。それらの粒子を,アメリカのゲルマンはコークと名づけた。いつかは素粒子がコーク粒子に分解する事実が発見されるだろうと思っている物理学者も沢山いる。ところが,コーク粒子はかなり重い質量をもっているらしい。だから,それが見つかるとすれば非常にエネルギーの高い現象でのことであろう。その期待に応えるためには,現在の大加速器でも,まだ充分なエネルギーとはいえない」 「巨大装置のひとつの目的は,新しい素粒子を発見し,できれば素粒子より基本的な粒子を見つけることだろう。セルンのPSPSもブルックヘブンのAGSAGSも,新しい型の粒子,つまり,共鳴状態の粒子を発見したそうであるが,その結果から基本的な粒子の存在が予想され,それを発見する目的でさらに大きな装置がいるとなると,このシーソー・ゲームはどこまでも続くのではあるまいか」 「あるいはそうかも知れないし,またそうでないかも知れない。そうでない可能性もあるというのは,素粒子間の見えない紐を理解する道は,コーク粒子を考えなくても,まだいろいろあるからだ。ハイゼンベルクは,根源物質が素粒子としてあらわれる場合に,その力学的効果でコーク粒子と同じ結論がでるので,別にコーク粒子がなくてもよいと主張している。また,湯川やド・ブロイなどは,素粒子の時間・空間的な構造の結果として同じ効果が理解できると考えている。この説でもコーク粒子は不要になる。いずれにしても,現在のところどの考えが正しいかもうひとつのきめ手が欠けているようだ。  だが,どの道をとるにしても,われわれが宇宙を根本的に支配する法則の相手として根源物質を追っていることに変わりはない」  Z博士とわかれたA記者はセルンからジュネーブ市内へと車を走らせた。道にはトラック,タンカー,クレーン車が続いている。セルンで,現存の倍のスケールをもった加速器,六〇60倍のエネルギーをもつ粒子を作りだす装置の建設が進んでいるのだ。そしてそのあとには,一〇10倍もスケールを大きくした全欧州加速器の計画が具体化されようとしている。 「人間はどこまで貪欲なのであろうか」  A記者はそらおそろしいことだと思う。だが,これは今に始まったことではない。人間が生存するかぎりその欲望は続いてきたし,今後もそうであろう。だから,自然の根源を知りたいという欲望にかられた人々は,これからもさらに新しい答えを追い求めてさまようことだろう。  宇宙の根本法則は。根源物質とは……。 2 物質生滅 ------------------------------------------------------------------------------- 物質の極限にある素粒子,それは瞬時に生成・消滅する。全く奇妙な理由に裏うちされているその事実から,素粒子論の幕が切っておとされる。 見なれぬ写真  ロスアンゼルスに近いパサデナでは,元日を飾るバラ祭も無事に終わり,一九三二1932年(昭和七7年)がはじまろうとしていた。街全体がうきうきとした陽気な空気のなかで,しかし,一人の青年だけが別世界をさ迷っていた。  青年アンダーソンは,ある日,実験中に撮った写真のなかに一1枚だけ見慣れぬものがまじっていることに気がついた。そしてその日から,彼の頭のなかはその写真のことで一ぱいになってしまったのである。  祭も何もかも吹きとばすような,青年を惹きつける写真とはどんなものであったろう。もしも,おせっかいな誰かが彼にせがんで,その写真を見せてもらったとしたら,きっと驚くほどがっかりし,それからアンダーソンを大変な変わり者と呼んだことであろう……本当に,それはつまらない,どこが他の写真と変わっているのかもわからないようなものであった。第一,写真といっても,美しい風景でも人物でもなく,もちろんヌードでもなく,黒いバックのあちこちにしみのような斑点が浮き,その斑点の間に細い円弧をえがいた白点がならんでいる……といった代物である。こんなもので,青春の楽しみを犠牲にする理由があるのだろうか……。  しかし,物理学者,とくに極微の世界の探険者にとっては,その白点の円弧こそ,素粒子をかい間見る唯一の手がかりであった。アンダーソンはカリフォルニアの大学を終えると,電子の荷電を決定したミリカン教授のもとで研究生活をはじめた。それが,奇妙な写真に熱中しはじめる彼の生涯を決定したのである。  彼は宇宙からやってくる放射線……宇宙線の解明に取り組みはじめた。広大な宇宙のどこかから,電気をおびた粒子がやってくる。それらは地球の大気圏に入ると,急速に数を増して地上にふりそそいでいる。二十20年ほど前,オーストリアのヘスがこの事実に気がついた。最初ヘスは地表から放出される放射線かと思っていた。ところが,その強さは地表から離れるにつれて減少するどころか,増加するのである。したがって地球外からやってくると結論しないわけにはいかない。宇宙線の正体はなにか,それはどこから来るのか……太陽からか,銀河系からか,あるいはもっと遠くの宇宙からか。この不思議な現象が,好奇心に富んだ若い物理学者の興味を惹かぬわけがない。  アンダーソンが宇宙線の研究にとりかかった頃,その正体は多分電子だろうという定説ができかかっていた。電子ならば,その性質がいろいろわかっているから相手にしやすい。彼はそう考えて実験をはじめ,そして奇妙な写真につき当たったのである。多くの写真は確かに電子の姿をとらえているのだが,一1枚だけは違っている。  発見は偶然であったが,全くの棚ボタではなかった。彼が用いた武器は霧箱とよばれる。蒸気をたっぷりふくんだ気体の中を電気を帯びた荷電粒子が通ると,その道筋にあった気体が電気をうばわれてイオンになる。このイオンを芯として蒸気が水滴をむすぶことを利用して,粒子の通る道を目に見えるようにした装置が霧箱である。霧箱を使えば,宇宙線中の荷電粒子ひとつひとつを目にすることができる。霧箱そのものは世界中の物理学者が使っていたものであるが,アンダーソンはその上にひとつのアイデアをつけ加えた。その霧箱全体を磁石のなかにおさめたのである。  電子は負の電気を持っているから,磁場のなかに入ると,決まった方向に旋回をはじめる。本書のこの頁のこちら側が磁石の南極,裏側が北極であるとすれば,上方から入ってきた電子はこの頁の上で左旋回をする。宇宙線が電子であれば,磁石の中の霧箱にできる水滴のあとは左まわりの円弧をえがくはずであり,その円の半径の大小から,宇宙線の粒子のもつエネルギーがわかるだろう。そういっても,直径二〇20センチほどの霧箱全体をつつみこむ巨大な磁石をつくるのは当時としては大変なことである。しかし,彼はともかくそれをやってのけた。  磁石のなかにおかれた霧箱が活動をはじめると,水滴の列は大小さまざまな弧をえがきだした。霧箱が作動する時間は短いから,それに合わせて瞬間的にカメラのシャッターを切る。彼は何枚もの美しい写真をとった。それがまた彼の自慢であった。しかし,宇宙線をとらえたどの写真でも,水滴の円弧のえがきかたは同じであったし,突然右まきの像があらわれようとは,考えても見ないことであった。 「一体,この右旋回は何の足あとだろう。円弧が反対だから,電子とは逆に正電荷をもつ粒子かも知れない。とすると陽子や正のイオンの足あとだろうか」 「だがそれにしても,水滴の大きさといい曲がり具合といい,電子と瓜二つに思える。ひょっとすると,宇宙線は霧箱の上から下に抜けたのではなく,逆に下から上に抜けたのかも知れない。確かにその確率は小さく,丁度この写真のとれる確率と同程度だろう。それなら当たり前の現象だが……」  彼はそんなところで謎を片づけようとしたが,しかし,どことなく釈然としない……。  その頃,東京のR研究所のスタッフも同じような飛跡を見ていた。ここでも,同一の点から出た二2つの飛跡が互いに反対まわりの弧をえがいていたという。だが,それを見た研究員はつぶやいた。 「電子という奴はえらくはねる。途中でジャンプしている」  残念にも彼の手からチャンスは逃げた。  アンダーソンはその先へ進んだ。宇宙線中の奇妙な円弧をえがく粒子が霧箱の上から入ったのか下から来たのかを識別しようとした。電子は,うすい鉛の板ならつき抜ける。だが,鉛の板を通る間にエネルギーの一部を消耗するから,板の前後でのエネルギーに差ができる。一方,磁石のなかでの粒子のまわりかたは,エネルギーの大きい粒子ほど大きな円をえがく。したがって鉛の板を通る前後でまわりかたに差ができ,粒子がどちらから入ったかが円弧の大きさからわかる筈だ。こうして,霧箱の中央は鉛の板で仕切られた。そして,彼は再び反対まわりの写真を得た。それは確実に,電子と反対の正電気をもち,電子と同じくらいの質量をもつ新粒子でなくてはならなかった。誰が見ても間違いなく新現象である。  こうしてアンダーソンは“陽電子”を発見し,自らその命名者となった。自然界のすべては,陽子と電子と光子とから出来上がっているという今までの説を破るニュースは,世界中に大きな反響を生んだ。だが,陽電子発見の意味はそれのみにとどまらない。誰も見たことのない“反対世界”への,最初の扉が開かれていたのである。 天才ディラック  陽電子が発見された……ニュースは世界の物理学者をわきたたせた。発見者アンダーソンは全く知らなかったが,この報せを聞いて雀躍(じやくやく)したのはケンブリッジ大学のディラックである。彼の奇抜な理論が,これで陽の目を見ることになったからである。  一九三〇1930年(昭和五5年),ディラックは,常識では考えられそうもない奇妙な説を提唱していた。この自然界には,電子と陽子との二2つの基本単位があり,原子はこの二2種類の粒子から作られている。なぜ電気が正と負との二2つの素粒子があるのだろうか。ディラックは,電子と陽子とは,一1つの素粒子の本物と影武者だといい出した。つまり,陽子は電子のぬけがらのようなものだというのである。  彼の説を聞いた人々は,はじめびっくりして,それから大笑いを始めた。陽子が電子のぬけがらなら,もう一度電子がそのぬけがらを着ると,電気量が帳消しになって見えなくなる。そんなことが起こった日には,電子と陽子とからなる原子もまたたく間に消えてしまう……。早速,皮肉屋のパウリが,“ディラック理論に関するパウリ効果”を提唱した。 「ディラックの新理論は誰にも理解できないというのが,私の結論だ。その理由は,仮に彼が自分の考えを述べたとして見給え。誰かが彼の説を聞くまえに,まず原子がそのことに気づき,またたく間に消えうせる。原子からできているディラックもまた消滅してしまうから,誰も彼の説を聞くわけにいかない筈だろう」  もちろん,これは冗談であるが,それほど悪名高いものであった。一生懸命宇宙線にとり組んでいたアンダーソンにまで,ディラックの説がとどくわけがない。  ところが,ディラックの説は九九99パーセント正しい推論をしていた。その最後の一1パーセント……電子のぬけがらを陽子と解釈したばかりに,あやうくすべてをふいにするところであった。電子のぬけがらを,陽子でなく,アンダーソン発見の陽電子とするならば,話はすべてうまくいく。彼が喜んだのも当然である。  陽電子を電子のぬけがらであるとすれば,電子と陽電子が合体して消えても,原子がなくなるわけではない。その場合,二2つの素粒子のもっていたエネルギーはガンマ線として放出されるであろう。また,反対の経過をたどるなら,ガンマ線はこの世界に電子と陽電子との一対を作りだすこともあろう。アンダーソンがとらえた陽電子は,宇宙線のなかにあるガンマ線が空中で電子とともに生みおとしたものということになる。  陽電子の発見によって宇宙線の研究はさらに大きく前進した。宇宙を旅してくる粒子は,おそらく陽子や原子核であろう。それらは大気層に達すると,ガンマ線を出し,ガンマ線は電子と陽電子の対を次々と作ってゆく……。こうして,宇宙線の謎の一端はとけはじめたのである。 量子論と相対性理論との結婚  ディラックはなぜ電子のぬけがらなどという奇抜な説を考えたのだろうか。話を,陽電子の発見より五5年前にもどそう。  彼にはいろいろ奇抜な話がある。ある日友人が彼の家を訪問した。ディラックは丁度,奥さんと居間でくつろいでいた。友人は,話をしながらも彼にとって初対面の奥さんをいつ紹介してくれるかともじもじしていた。しばらくしてそのことに気のついたディラックはこういった。 「失礼しました。これはウィグナー教授の妹です」  ウィグナーとは,量子力学の数学的方法を開拓してノーベル物理学賞を受賞した物理学者である。しかし,ディラックは友人に最後まで,彼女が彼の伴侶であるというのを忘れていた。彼女があとで夫に食ってかかったことは想像に難くない。しかし実際の結婚について無頓着なディラックも,量子力学と相対性理論とを結婚させることには大乗気であった。  二十20世紀は,相対性理論と量子力学という二つの大理論を生んだ。いずれも美事な体系であったが,ディラックは彼らを結婚させるならばもっと美しい子が誕生するであろうと信じていた。  実際にもそれは必要なことである。原子のなかの電子は,量子力学なしに理解できない。一方,その電子は,ほとんど光速に近い速さで運動しているから,当然相対性理論を適用すべき相手である。だから,正確な答えを出すには,量子力学だけでは充分でない。たとえば,水素原子の放出する線スペクトル——この規則性は量子力学誕生の動機を与えたものだが——つまり規則的にならんだ線も,さらにくわしく見ると,一1本一1本がわずかに隔たった何本かの線の集まったものだ。量子力学ではこんな細かいことは問題にしなかったし,また説明しようにもできない。しかし,それが見られる以上は理由が見つからなければならない。ゾンマーフェルトはひとつのアイデアをもちこんだ。電子は非常に速く運動している。相対性理論によると,その場合,電子の見かけの質量がそのときどきの速度によって増減する結果,その動きが量子論だけで考えたように簡単なものでなくなる。この効果を考えに入れるならば,細線の存在も説明できる。ともかく,量子力学の答えを一歩進めるためにも,相対性理論と結びつく必要があるわけだ。  しかし,事はいうほど簡単でない。  量子力学には確率の波という面倒なものが登場する。ひとつひとつの電子の運動が普通の物体のようにピタリと定まらないからである。電子の位置をきちんとおさえると,その速さがどんな値か全く予想できない。逆に,速さをきめると,今度はそれが何処にあるかが正確にいえない。その事情をあらわすために,“確率の波”という道具が用いられる。ミクロの粒子についてどれくらいの確率でものがいえるかが,波をあらわす形の数式で与えられているので,確率の波というのである。たとえば,あるエネルギーの値をとる電子の確率の波が,その電子のあり場所として甲の場所に七〇70パーセント,乙の場所に三〇30パーセントということをあらわしていれば,まずそれは甲の場所を探す指針となる。なにぶん確率の話だから,甲に電子の七〇70パーセントの部分があるわけでなく,場合によっては全然見当たらないこともおこる。それでは余り意味がないと思えるだろうが,我々はいつもひとつの電子だけ相手にするのではなく莫大な数の電子をとりあげる運命にある。我々がマクロの世界に属し,ミクロの世界の住人は数集まってはじめて我々と交渉できるからだ。その結果,確率の考えが現実味をもってくる。ひとつの特別の電子が,たまたま甲の場所にいなくても,莫大な数の電子のなかには必ず甲の場所にいるものがある。確率が七〇70パーセントというのは,全体の電子の七7割が甲の場所にいるという意味になる。だから,量子力学は確率の波を道具として充分その実力を発揮できるのである。  ところが,この確率の波の概念が,頑強に相対性理論との結婚を拒んでしまうのだ。安直に相対性理論の形式を用いようとたかをくくってかかったディラックは,けっきょく確率の波の考えがつぶれてしまうことに気がついた。彼は行く手に絶壁が立っているのを知った。  量子力学と相対性理論とは水と油のように和解できないのだろうか。いや,そんなことはない。何か特別のアイデアが欠けているようだ。 四4個の確率波  悪戦苦闘したディラックは,とうとうすばらしい方法を考えだした。確率の波に関する量子力学の基本方程式……シュレーディンガー方程式を,行列とよばれる量を係数とした方程式に書き直したのである。数学上のとり扱いが多少ややこしくなるが,この行列という量をもちこんだおかげで,相対性理論とはうまく和解できることとなった。これは電子の相対論的方程式,またはディラック方程式とよばれるようになるのである。  確かに,この方程式は量子力学から見ても,相対性理論から考えても満足な解答らしい。二つの大理論について,いざ結婚行進曲と思えたのだが……。  ディラック方程式が行列量を用いて一1つにあらわされるのは,実はこれが四4個の連立方程式と同じ内容をもつからである。その四4つの方程式がいずれも確率の波をきめるものとすれば,方程式の数だけは違った確率の波,つまり四4種類の波がきまるということになる。シュレーディンガー方程式では,ともかくひとつの確率の波を相手にすればよかったが,ディラック方程式ではどの波をとりあげればよいか,大変ややこしい話になる。  こんな四4種類もの確率の波がいるのだろうか。この疑問が,ディラック方程式の成功にストップをかけた。  四4個の確率の波のうち,二2個の一1組にはうまい理由がある。ナトリウム灯の黄色の光を分光器でしらべると,黄色の部分に相当して強い線が見られる。それをくわしく見ると二2本の線からできている。一九二五1925年(大正十四14年)に,ウーレンベックとハウトシュミットはこれを説明するために,電子にスピンとよばれる自転能力を仮定した。電子は右まわりと左まわりの二2様の回転が許されている。だから,電子の確率を問題にする場合,右まわりをしている電子と左まわりをしている電子とは別々に考えなければならない。ディラック理論の確率の波の二2個の組みわけは,まさにその事情を巧みに導いたものであった。その点では,何種類も確率の波があるのは,長所でもあり,一がいに欠陥とはいえないのである。  それでは,残る二2個一1組は何であろう。方程式を解くと,エネルギーについて正と負との解があらわれる。おそらく,残った一1組はエネルギーが負の解に対応しているのであろう。結局,四4個の確率の波は,正エネルギー値をもつ右まわり,左まわりの電子をあらわす二2個と,負エネルギー値をもつ残りの右まわり,左まわりの電子をあらわす二2個と見られるのだが……わからないのは,負のエネルギーということである。  相対性理論によれば,電子はたとえ静止していても,その質量に光速の平方をかけただけのエネルギーをもっている。だから,電子のエネルギーは確実に正の値をとらなければならない。負のエネルギーをもつ電子などは全くナンセンスの代物である。  物事万事そううまくはいかない。確かにディラックは順調に理論に到達したように見えたが,そうは問屋がおろさなかったようだ。そして二2年の歳月が流れる……。  ディラックにはこんな話もある。ストックホルムに滞在中,彼は一1日ウプサラで講演するよう依頼をうけた。友人は汽車を利用したらとすすめたが,ディラックは地図を広げ,物指しと計算尺を用いてしばし考えた。 「このくらいだと,私がときどきやっている,朝食から夕食までの散歩の距離だ」  友人があっけにとられている間に,彼は昼食弁当一1個をもって出発してしまった。ウプサラでは,人々は彼の到着を今やおそしと待ちうけていたが,マラソンの大家はあらわれない。とうとう次の朝になった。一昼夜歩きつづけてあらわれた彼は,平然としていった。 「馬鹿な人間がいたものだ。なぜ,道路を一直線につくらなかったのか」  ディラックは,物理学でも直線コースを走りたかったであろう。だが,負のエネルギーの電子という問題は彼に曲がり道を強いた。  負のエネルギーの電子とは,どう考えても奇妙である。  正常な電子は,動く方向に力を加えられると加速されるが,これはエネルギーが増すからである。ところが,負のエネルギーをもつ電子に対して我々が正のエネルギーを加えてやることは,負の値の絶対値を減らすことになる。つまり動く方向に力を加えられると,この電子は減速する。  次に,正の電気をもった原子核やイオンを普通の電子の近くに置くとする。電子は負の電気をもっているから,クーロンの法則によって正電気に引かれ,そのまわりを運動するであろう。ところが,異常な電子は引力をうけると逆の方向に加速されることになるので,結果は反発力をうけているように動くことになる。  負のエネルギーをもつ異常な電子はこのようにことごとに意地を張った行動をすることから,あまのじゃくの騾馬(らば)電子とよばれるようになった(騾馬はもともと従順な動物なのに……)。ディラックの方程式が正しいならば,騾馬電子は確かにあるばかりでなく,電子はエネルギーの低い方が安定だから正常な電子がどんどん騾馬電子に化けてしまう筈である。だが実際には,正のエネルギーの電子はいつも安定しており,また,負のエネルギーの電子がみつかったという報告は一1件もない。 泡のファンタジー  一九三〇1930年(昭和五5年),ディラックは奇想天外ともいえる考えを発表した。電子の方程式を導いてから二2年目であった。その論文を読んだ多くの人々は変わり者の彼がまた冗談をいいだしたのではないかと思ったほどである。 「正のエネルギーを持つ正常な電子が,どんどん騾馬にならずにすむ手はひとつある」  彼は真面目な顔でいう。 「それは負のエネルギーをもった騾馬電子の席がはじめから全部ふさがっている場合だ。つまりこの世のなかは騾馬電子で完全におおわれていると仮定すればよい」 “電子は同じ席に一1個しか入れない”というパウリの考えた禁止原理がある。この原理は,原子内の電子配置を説明した。原子は原子核のまわりに玉ねぎの皮のように電子の殻(かく)をもっていて,殻にはエネルギーの低いものから順に,K殻,L殻,M殻等々と名前がついている。各々の殻には定員があって,エネルギーの高い殻にある電子は,低い殻の定員が満たされている限り,決してそこには入ってゆけない。 「それと同じことが今の場合にも起こっているのではないか。正のエネルギーの電子が負のエネルギーの電子になろうとしても,すでに空間は負のエネルギーの電子でいっぱいだ。したがって,それ以上負のエネルギーの電子が増えることは不可能で,電子は安定する」  だが,原子の場合には電子はたかだか数えられる個数で,しかもある微小な空間にかぎった話だ。 「われわれの場合,空間全体にそういう仮定をしなければならないから,ほとんど無限個の電子を相手にすることになる。無限個の電子は,無限大の負の質量と無限大の負の電気量を与える。それはどうしたものだろう」 「しかし,空間全体にわたって一様に分布した質量や電気量は,仮にあったとしても測ることができない。だから空間全体に騾馬電子があると考えてもかまわないではないか」  とうとう彼は答えに達したらしい。 「質量や電気量は,実は相対的なものである。たとえば,仮にわれわれが水のなかに住んでいるとしよう。水中に落ちた石ころは確かに下方に向かって落ちるから,石は質量に比例する重力を下方に受けていると判断される。これは当然だ。ところが,石ころに附着していた空気は泡となって上昇する。泡の運動はあたかも泡が質量をもち,それに比例する重力を上向きに受けているように見える。重力は下向きに働くのに,泡は上方に昇るのである。しかし,本当に質量をもっているのはまわりの水の筈だが,水中に住んでいるわれわれには,水の質量を測ることができない。これと似たことが電子の場合にも起こっているのではないだろうか。負のエネルギーの電子つまり騾馬電子は,空間全体につまっているので,そのなかに住んでいるわれわれは,それらの質量も電気量も測れない。騾馬電子は動きようがないので,尻尾を出さない。しかし,正常の電子は騾馬電子とエネルギーの値が違っているから,パウリの禁止原理と矛盾せずに勝手に騾馬電子のつまった空間をとび廻り,尻尾も頭も出しているわけだ」  彼は今の考えをもっと進める。 「騾馬電子の充満した海に水中の泡のように一1つの空席ができたらどうなるか。この孔は,水の中の空気泡のように,われわれの目に見える筈である。騾馬電子は正のエネルギーを加えられると負のエネルギーの絶対値が減少し減速するが,騾馬電子の海はもともと余ゆうがなくて動きようがない。しかし,たまたま空席があれば,それより絶対値の大きな騾馬電子がそこを目指して殺到し,ひとつがその席を占めると新しくできた空席をまた次が占める……というように,一部の騾馬電子が負のエネルギーの絶対値の小さいほうに移動していく。その結果,孔は逆に負のエネルギーの絶対値の大きなほうに移り,正常の電子と同じように加速される。また原子核や正イオンの近くでは騾馬電子は反発されるから,そのなかにある孔も反発される筈である。孔はまさしく,正の質量(騾馬電子は負の質量であるが)をもち正の電気量をもつ粒子と見えるではないか。そして騾馬電子そのものは測られなくても,そこにあいた孔は観測されるはずだ」  ディラックは自分の着想にひどく自信があった。これで宇宙の物質の理論ができたと思った。宇宙は基本的には陽子と電子とからできていると信じられていた時代である。正の電気量をもつように見える孔こそ,まさしく陽子であろうと彼が速断しても仕方がなかった。陽子は電子の一八四〇1840倍の質量をもっているが,このこともやがて説明できるだろう……。 反対粒子  ディラックの孔の理論は,着想の奇抜さと,最後に孔を陽子としたちょっとの誤りのため,猛反対をうけた。というのは,騾馬電子の海にあいた孔は,正常な電子にいき当たるとまたたく間にうめられ,正常な電子はガンマ線という形でエネルギーをすてるからである。もし孔が原子核をつくっている陽子ならば,陽子と電子とがたちまち姿を消してガンマ線になるわけだから,原子も,それからできているすべての世界中の物質も,たちまち消しとんでしまうだろう。こんな馬鹿な話はない。それが皮肉屋パウリの冗談となったのである。  一般に新しい理論は歓迎されないものである。九九99パーセントの正しさも,あと一1パーセントの誤りが,その理論を受け入れさせる障害となる。その障害をとり払ってくれるのは自然の厳然たる事実である。幸運は,ディラックの場合,それから二2年後のアンダーソンの陽電子の発見によってもたらされた。  方程式を見る限り,電子に与えられた四4個の確率の波は全く対等にとり扱われる。このことから,重大な事実が浮かび上がってくる。つまりそれは,右回りのスピンをもつ電子と,左回りのスピンをもつ電子が同等に存在するように,電子と陽電子とは同等に存在できることを意味しているからである。  電子と陽電子とは反対の役割をもっていて,互いに消しあってガンマ線になるか,またはガンマ線から対をなして生まれてくる。だから,電子を粒子とよべば,陽電子はその反対粒子ということができる。ディラックの方程式からは,粒子と反対粒子とが同等に存在できると結論できるわけだ。どちらが反対なのかは,本当は便法である。われわれは圧倒的多数の電子がある世界に住んでいる。そこでは少数派の陽電子は反対党というだけにすぎない。  もし,反対粒子のあることが電子についてだけの話でなければどうなるであろうか。陽子にはその反対粒子があるかも知れない。電子と陽子とからつくられる世界と,陽電子と反陽子とからつくられる反対世界とは同等の権利をもって存在できるのではないだろうか。  再び,二十20年ほどの歳月が経った……。  一九五三1953年(昭和二八28年),反陽子の存在をたしかめるため二2つの巨大な陽子加速器が建設された。ニューヨーク郊外,ブルックヘブン国立研究所の二三23億電子ボルトのエネルギーをもつコスモトロンと,カリフォルニア大学の六〇60億電子ボルトをもつベバトロンとである。  電子の反対粒子である陽電子は,幸運にも自然の加速器中で,つまり宇宙線でつくられた。陽電子を生みだすには,一〇〇100万電子ボルト程度のガンマ線が必要で,これは宇宙線で充分得られる。しかし,反陽子を生みだすには二〇20億電子ボルトのエネルギーをもつパイ中間子線を必要とする。宇宙線のなかにも大きなエネルギーの粒子があるが,それを利用するチャンスは少ない。そこで,必要なエネルギーを人工的につくる加速器の建設に巨額が投じられた。  果たして陽子にも反対粒子があるのか。われわれの世界と同等な権利で存在を主張する反対世界が確かめられるか。この解答を求めて,二2つの加速器グループは激しい競争をはじめた。そして,……一九五五1955年(昭和三十30年)十10月,カリフォルニアのセグレとその協力者のグループは,測定用の乳剤を用いた写真乾板のなかに,標的から反陽子が作られたことを示す濃い飛跡を発見した。その後,彼らは中性子の反対粒子をも発見できた。  反対世界はもはや空想ではなく,現実味をもつものとなった。まだ,宇宙のどこに反物質からできた世界があるかは謎である。しかし,世界のある限り反対世界があっても不思議ではなくなったわけだ。そのことは,電子と陽電子とが,また陽子と反陽子とが同時につくられ,同時に消されるという事実で保証されている。逆にいえば,反対世界が存在できるからこそ,物質は生成したり消滅したりする。  化学反応には二つの法則があった。エネルギー保存則と質量保存則とである。特殊相対性理論は質量とエネルギーの同等性を見つけ,これらを一つのエネルギー保存則に統一した。物質の基本要素として登場した素粒子は,粒子と反粒子との組によって,エネルギーだけが最後に意味をもつという相対性理論の結論の正しさを示し,われわれを反対粒子の世界,つまり反対世界へと導いたのである。  最近の新聞は,セルプコフの七〇〇700億電子ボルトの陽子シンクロトロンが反対ヘリウム原子核をつくりだしたことを報じている。ノボシビルスクの貯蔵リング型加速器は,電子と同時に陽電子を加速して,この二2つの正面衝突によって生まれる高いエネルギーの現象を探求している。反対原子核や反対素粒子が原子核や素粒子と同じように使われ,それが極めて当たり前と感じられるようにやがてなるだろう。エネルギーが充分あれば簡単に作りだされ,また適当な相手があればたちまち消しとぶ物質からつくられているわれわれの世界の不思議さも,今後次第に明らかにされていくことであろう。 3 素粒子変転 ------------------------------------------------------------------------------- 素粒子は別種の素粒子に変わる。原子核世界の入り口に立って,物理学者はベータ線現象からはじめてこの事実を知った。そこには,素粒子の最後の生残者中性微子が活躍している。 ローマの苦悩  街のところどころにそびえる城壁。虹を散らしながら噴きあげる無数の泉。ローマは歴史の都である。この古都で,最も新しい科学に関する会議が開かれていた。一九三一1931年(昭和六6年)の秋のことである。  王立アカデミーの会議場では,世界各地から集まった原子核物理学の権威の顔がならんでいた。コペンハーゲンのボーア,ゲッチンゲンのハイゼンベルク,ケンブリッジのディラック,ローマのフェルミらが見える。彼らは当面している原子核物理学の難問題を解決すべく,この地で国際会議を計画したのである。  二十20世紀初頭からはじまった原子への追求は波乱に富んだものであったが,原子世界の法則,量子力学の建設の成果によって,原則的には一応の終止符がうたれた。原子とその集まりの分子,固体などは,電子を量子力学でとり扱うならば,本質的な困難なしに理解できるであろう。それならば,次の問題は未知の領域,原子核を攻撃することである。  原子核は三3種類の放射線を放出している。それらは,ギリシア文字を上からとって,アルファ線,ベータ線,ガンマ線と分類される。原子核はなぜ放射線を出すのか,原子核の内部はどうなっているのか。それはまだ深い謎におおわれていた。多くの物理学者の関心が集まるのは当然である。  だが,会議の空気は沈んでいた。新しい分野の開拓という溌らつとした気分を予想した傍聴者たちは不思議に思ったのだが,それには理由があった。結論を先にいえば,原子攻撃に成功した余勢をかって一挙に原子核を制圧しようとした物理学者の野望は,いたるところで頓挫していたのである。  原子核は,はじめはとり扱いにくいものには見えなかった。  実際,最初に原子核の沃野に斧を入れたのは,レニングラードの大学を卒えたばかりの青年である。この青年ガモフは,はるばるゲッチンゲン大学に二2ヵ月の夏を過ごしにやってきたばっかりに,この最初の開拓者の栄誉をかちとった。  ある種の物質は放射線を出している。この事実はすでに一八九六1896年(明治二九29年)ベックレルとキュリー夫人が発見していた。三3種の放射線は,磁場のなかの曲がり具合から区別される。アルファ線は正電気をもった重い粒子,ベータ線は負電荷の軽い粒子,そしてガンマ線は波長の短い光線である。  ガモフがとりあげたのは,アルファ線がなぜ原子核から放出されるかという問題だった。常識的に考えると,原子核のなかにアルファ線の正体であるアルファ粒子があるからに違いないが,考えてみれば不思議である。一九一一1911年(明治四四44年),ラザフォード卿がはじめて原子核の存在を確認したとき,卿はアルファ線を弾丸として原子にあて,それがどうやってはねかえされるかという問題から,原子の中心にある固い芯,つまり原子核の存在を結論した。アルファ線が原子核ではねかえされるのは,アルファ粒子のもつ正電気と原子核のもつ正電気とが互いに反発しあうからだ。つまり,原子核はアルファ粒子をなかに入れないようバリケードをつくっている。では,同じバリケードの内側からはなぜ簡単にアルファ線がとびだすのであろう。多分その場合だけバリケードを撤去してくれるほど,原子核が内と外を区別する連帯意識をもつ筈がない。  ガモフは二2ヵ月の夏休みをつぶしたおかげでこの問題を解いてしまった。アルファ粒子が,量子力学の法則にしたがう対象であることに気づいたからである。原子核には,アルファ粒子を簡単によせつけず,また簡単に放出しない電気力による壁がある。しかし,もし量子力学を用いて答えを出すと,アルファ粒子の確率の波は,壁の内側にも外側にも粒子の存在を許すように振舞う。つまり,どちらにもアルファ粒子がいる可能性があるから,どちらからも壁を通り抜けられる。それは全く量子力学でだけ考えられる効果で,そう考えつけば簡単な演習問題のようなものであった。  通り抜ける割合は,もちろん壁がうすいほうが大きくなるが,総体的にいえば,放出される割合も内部に入りこむ割合も同じようにかなり小さい。けれど,いずれも実現することに変わりはない。結局アルファ粒子の壁に衝突する機会が,原子核の内部にいる場合と,原子核の外からぶつかる場合とのどちらで多いかが問題となる。多分,アルファ粒子が外から壁に近づく場合よりも原子核の内部でうろうろしている場合のほうが機会は多いだろう。だから放出が起こりやすい。  ガモフとほとんど同時に,アメリカでもコンドンとガーネーによって同じ理論が提唱された。それまで理論的手がかりの全くなかった原子核という新しい対象にも量子力学が使えるばかりでなく,それを用いなければ現象が理解できないという彼らの結論は,すばらしい発見であった。突破口が見つかったのであるから,原子核の謎も早晩解明されるだろう。そう考えて物理学者は一せいに原子核の攻撃にとりかかった。ところが,この期待はたちまちけしとんでしまった。 消えたエネルギー  行く手にはベータ線の放出現象という難関が待っていた。会議はいきおい,この問題をめぐって展開されていく。 「ベータ線の現象に関する現状を知るために,エリス博士の分析を聞くことにします」  司会者の紹介によって,エリスが登壇した。 「原子核,とくに不安定な原子核は,ベータ線を放出して原子番号のひとつ大きな比較的安定な原子核に変わります。放出されたベータ線粒子は負の電気量をもつ筈ですし,いろいろの測定結果から見て電子であろうと考えられます。  ベータ線粒子のエネルギーは,磁場のなかでの曲がりかたから測定するのがふつうの方法です。アルファ粒子の場合は,物質のなかの原子と衝突してそれをイオン化する力が大きいのでこれからエネルギーがわかりますが,ベータ線ではイオン化が小さいのでこの方法は使えません。  ともかく,アルファ線とベータ線の場合の著しい相違は,こうして得られたエネルギーが,アルファ線では均一であるのにベータ線では連続的にいろいろの値をとる点にあります。  たとえば,ラジウム原子核はアルファ粒子を一1つ放出してラドンに変わりますが,この際のアルファ粒子のエネルギーはどれをとっても7.5×10-6エルグで,それ以外のエネルギーをもった粒子はみつかっておりません。二二六226という質量数のラジウムが二二二222のラドンに変わったのですから,その重さの差がアルファ線粒子のエネルギーに相当し,均一な値が出ると考えられます。  ところが,原子核がベータ線を放出する場合には,ベータ線粒子のエネルギーが実測で均一になっていないわけです。もっと正確にいうと,ゼロから始まって反応の前と後との原子核の重さの差できまる一定値までの,あらゆるエネルギーの粒子が見つかっていることになります。これは奇妙なことです。放出前の原子核,つまり親の原子核がベータ粒子を出して放出後の娘の原子核に変わっているわけですから,当然それら二2つの原子核の重さの差に相当するエネルギーがベータ線粒子に与えられている筈です。前後の原子核がいろいろ違った質量をもつ筈はありませんから,ベータ線粒子が均一のエネルギーを持たないのは,理解に苦しむ事実といわなければなりません」  このようにエリスは,今までの状況をわかり易くまとめた。それから,彼とウースターとの美事な実験の話に入った。 「放出されるベータ線粒子が均一のエネルギーをもたぬのには,まだ次のような可能性が残っています。ベータ線粒子が原子核から放出される際には一定のエネルギーを与えられるのだが,そのエネルギーを測定する装置に到達するまでに何かの理由……とくに空気中の分子と衝突するなどで,なかにはエネルギーを消耗する粒子もあって,上に述べたような結果がでる。これはありそうなことで,また確かめることもできます。  ウースターと私の行なった実験はこれです。私たちは,ベータ線を放出するラジウム原子核全体を熱量計にいれ,一定時間内に放出される総熱量を測りました。この方法ではベータ線粒子が分子と衝突してそれに与えるエネルギーも勘定のなかに入りますので,その熱量を放出した原子核の数で割ると,ベータ線粒子一1個あたりの平均エネルギーがわかります。  ベータ線粒子が原子核から一定のエネルギーをもらって放出されていれば,熱量から得られる平均値も,この値と一致する筈です。反対に,原子核からベータ線粒子が放出される時すでに,てんでにばらばらのエネルギーしか与えられていないとすれば,実験の答えはその分布の統計的平均値……計算によると,最大のエネルギー値の約三3分の一1になります。  実験では最大値1.23百万電子ボルトの予想に反し,0.35±0.04百万電子ボルトが得られました。つまり,ベータ線粒子は原子核をとび出すときから,勝手な,均一でないエネルギーをもっていると結論できます」  エリスの話が終わると,場内には「ほっ」と溜め息が流れた。エリスとウースターの実験は疑いのないほど明確だ。すると,ベータ線現象はどう考えてよいのだろう。完全に常識を超えているのである。 ボーアの魔法  しばらくしてハイゼンベルクが口を開いた。 「ベータ線の問題に関連するのだが,原子核の構成にも疑問があるように思われる。御承知のように,原子核は質量数と原子番号で特徴づけられている。質量数は原子核の大体の重さで,水素原子核すなわち陽子の重さの何倍かという数をあらわしている。つまり,原子核は質量数に相当する個数の陽子からつくられている。ところで,原子番号は原子核の正の電気量が電気素量の何倍かをあらわすものだ。大ていの重い原子核では,原子番号は質量数の約半分の値になっている。たとえば酸素の原子番号は八8,質量数は一六16である。質量数に相当する数の陽子で原子核がつくられているとすれば,陽子は正の電気素量をもつから,原子番号と質量数の差は理解できない。そこで,質量数と原子番号の差に相当する数の電子が,原子核内に存在すると考える必要が生じる。電子は負の電気素量をもつから,それが正の電気量を打ち消して全体の電気量は原子番号通りになる。また,電子の重さは陽子の二〇〇〇2000分の一1だから,質量に変化はない。しかも,ベータ線粒子は電子であり,それが放出されることから考えて,原子核内に電子があると見てよさそうである。これが現在我々がもっている原子核のイメージだ。  ところが,よく考えるとおかしい。ガモフがアルファ線放出の理論で成功したように,仮に原子核に量子力学が使えるとしよう。すると,電子は原子核内に存在できないという結論が出る。それは,電子は質量が小さいため運動量も小さく,不確定性関係を用いると,電子の見出される位置の範囲が,原子核の大きさの約百倍の広さになるからだ。電子はたとえ原子核のなかの小さな領域にとじこめても,たちまち原子核の外に飛びだしてしまう。このことから見て,原子核の構成にも問題がある」  一人が質問をする。 「それが,原子核がベータ線を放出する機構とは考えられませんか」 「それは駄目だろう。今述べたことは,ベータ線を放出しない安定な原子核にもいえる話だ。それに,ベータ線放出の割合はかなり小さいから,この機構では答えが大きすぎるだろう」  ボーアが口を開く。 「不確定性関係を使うのは面白いのだが,もし仮に,原子核内の電子が非常に速く動いているとすれば,相対性理論の示すように電子の質量は重くなって,今の話の通りにはならない。ディラック君はどう思うかね」 「それについては,クラインが適当な答えをもっているでしょう」  ディラックは自分で答えるかわりに,クラインを指名した。 「実は,相対性理論の効果を入れると,ハイゼンベルクがいうよりももっと事情は悪くなります。正エネルギーをもつ電子が,どんどん負エネルギーの騾馬電子に変わるから,結局原子核から出てしまうわけです」  ディラックは黙っている。彼は自分の新しい理論では,負エネルギーの世界はすでに電子でつまっているのでそうはならないと思うのだが,……たとえそうであっても,原子核の当面している問題は解決しないのは事実だ。  ベータ線の現象といい,原子核内の電子の存在といい,いずれも原子核を攻撃することの難しさを物語っているように見えた。  最後にボーアが立った。 「原子核物理学の現状は,諸君が充分おわかりになったように,必ずしも楽観できるものではない。しかし,ふりかえってみるならば,我々は何度も同じようなことを経験してきた。相対性理論はエーテルの存在という難問を征服し時間・空間の考えを根本から変えた。原子に関する不可解さは量子力学によって克服され,因果法則の考えをすっかり改めさせた。このことを考えあわせると,原子核内にある電子が一筋縄でいかないことも,ベータ線現象でエネルギーの収支がつぐなわれないことも,現実にあってもよいのではなかろうか。それは将来の理論によって充分な説明が与えられることかも知れない」  彼は大変な主張をしている。エネルギーの保存法則が破れることもあるというのである。もし事実とすれば大問題だ。物理学者は過去長い年月かけて,エネルギーの保存則をつくりあげてきた。それが破れるとすれば,その結果はいたる所にあらわれる筈である。二2年前に,ボーアはファラディ講演でこの主張をした。それを聞いた人まで含めて,この会場の空気もボーアの主張を受け入れているようであった。確かに,一九三一1931年の頃,原子核はまだ神秘の扉のなかにあった。原子核について何が発見されるかわからない状況で,ボーアがかけた魔法はまさに効力を発揮していた。 巨人と小人  ローマ会議は終わった……のだが,ひとつの奇妙な現象が残った。それは,いつも批判的で攻撃的な筈のパウリが,不思議にもこの会議では全く黙りこみ,ボーアの説にさえ同意するように耳を傾けていたことだ。さすがの彼もこの問題については手が出なかったのであろうか。実のところそれは逆であった。彼の頭のなかではボーアと全く違った考えがかけめぐっていた。  その年の六6月,パウリはパサデナで,ベータ線粒子,つまり電子がてんでに勝手なエネルギーをとるのを理解しようとするには,実験や観測に容易にはかからない電気的に中性な粒子が同時に放出されるとすればよい,という説を発表したばかりであった。もし電子とこの中性粒子が組で放出されるならば,それらのエネルギーの和が親と娘との原子核のエネルギー差に相当して一定であればよい。そのエネルギー差の範囲で,電子がゼロから最大値までの勝手なエネルギー値をとっても不思議はない。観測にかかりにくい中性粒子に責任を転嫁すれば,エネルギー保存則が破れるという大事にはならないわけである。  しかし,観測することのむずかしい中性粒子とは何か。電気量ももたず,重さも全くないようなこの粒子は,まだ誰も見たことがない。だから,それはひとつの仮説にすぎない。パウリは持ち前の批判的な性格から,この種の仮説は自分のものでも余りすきでなかった。もう少しあたためておいた方がよいと思った。原子核物理の状況は新しい粒子を予言する大胆さをおさえている。多分,彼が席上それをいいだしたとしても,仮定された粒子が現に見つからないかぎり,結局それもエネルギー非保存のいいかえにすぎないではないか,といわれるだけのことである。  同じ事情は,“中性子”にもあった。最初に中性子の存在を予想したのはラザフォードであるが,誰もそれを信じようとしなかった。自然界は電子と陽子と光とで尽きている。これでも多すぎるかも知れないのに,何を好んで架空の粒子をもちこむ必要があるのか……。ボーアは新しい粒子が嫌いであったが,それは彼一人にとどまらなかった。  そんなわけで,原子核の謎に対する新しい解決の方法も見つからず,むなしくローマから引き上げたボーアらであったが,しかしその年を越すと,面々を驚かすようなニュースが続々とあらわれてきたのである。  一九三二1932年(昭和七7年)は輝かしい発見の年であった。コックロフトとワルトンとによる原子核の人工破壊の成功,チャドウィックの中性子の発見,アンダーソンの陽電子の発見,ユーリーの重水素分離などがその年を飾った。  とくに,原子核を構成する中性子の発見は,原子核物理にとって干天の慈雨であった。早速ハイゼンベルクは,陽子と中性子とから原子核を構成する新理論を発表した。中性子は,陽子とほとんど同じ重さをもった電気的に中性な素粒子であり,たとえば酸素原子核の一六16という重さは,八8個の陽子と八8個の中性子とで荷なわれているのである。原子核内に電子を考えようとして生じた混乱はこうして一掃され,原子核物理学は確実に一歩を踏みだした。  パウリは,チャドウィックの中性子発見に元気づけられ,自分が仮定した中性粒子にもだんだん自信をもってきた。しかし,残念ながら,原子核の中性子がすでに発見された以上,自らの粒子を中性子と名づけるわけにはいかない。パウリの中性粒子は,先に名乗りをあげた中性子と違って軽い粒子だから,あるとしても簡単に発見できるものではない。エリスとウースターとの実験でもこぼれてしまっている。パウリに同情した人々はこれを“パウリの仮説”とよんだ。二2つの中性子がある。一1つは陽子とほとんど同じくらいで重い巨人だが,もう一1つはほとんど測れないほど軽い小人である。  パウリの中性粒子の名づけ親となったのは,ローマのフェルミであった。フェルミはそれをチャドウィックの中性子と区別する必要から,“小さな中性子(イタリア語でニュートリーノ)”とよんでいた。つまり,“中性微子”である。彼だけはパウリの説を信じていた。 素粒子錬金術  原子核の構造が明白になってくると,ベータ線の問題はますますこみ入ってきた。電子は確かに原子核内に席をもてないのに,なぜベータ線現象に限って,原子核はあたかも内部にそれをもっているかのように電子を放出するのであろうか。  フェルミはこの問題に頭を痛めていた。  しかし,理論も実験も同じようにこなせる万能な彼は,その問題一つにかかり切りになってはおられない。ローマではもう一つの面白い実験が進められており,それにはぜひともフェルミの指導が必要であった。実験は中性子を原子核に照射して別の原子核をつくることである。中性子は水によって減速されると,簡単に原子核にもぐりこむ。ゆっくり走るから核との反応のチャンスが多くなるわけだ。中性子をとらえた原子核は重さがそれだけ増すが,安定するためにエネルギーを少しすてる。ベータ線を放出して電気量(原子番号)が一1つ増えるわけである。電気量がもとの原子核より大きいものは,化学的にも別の性質をもつ。つまり,中性子によってある元素を別の元素に変えることができるのである。フェルミはほとんどこの実験につききりであったが,それが超ウラン元素を生み原子核分裂,原子核エネルギーの解放につながっていくとは,考えてもみなかった。  フェルミのところへも,ベータ線の問題にとり組んでいる人々のその後の噂が伝わってきた。一九三三1933年(昭和八8年),ベックとデジッテははじめてベータ線の理論を発表した。彼らは,原子核の近くで電子と陽電子との対が発生し,そのうち陽電子は原子核に捕えられ,残った電子がベータ線として放出されるのだと考えた。また,ベータ線粒子のエネルギーがいろいろ勝手な値をとるのは,原子核に陽電子がつかまる際にエネルギー保存則が破れるためだとした。まさにボーアの見解を支持する説であった。  パウリは中性微子説を主張するようになり,新しい粒子の嫌いなボーアと盛んにやりあっていた。フェルミは,エネルギー保存則がそう簡単に破れるものではない,と信じていたので,パウリの意見に賛成であった。 「ベータ線を放出する現象では,ひとり電子のみでなく,電子と中性微子とが組になって出ているに違いない。それにしても,原子核内にないはずの電子や中性微子がどうしてでてくるのか」  彼は電子と陽電子とが対で発生するアンダーソンの現象に目をつけた。その点はベックも同じであった。フェルミがベックと多少違っていたのは,電子と陽電子ではなく,電子と中性微子との対を考えた点である。電子と中性微子とが対をなして発生してくるのであれば,もともとそれらが原子核内に存在していなくても問題はない。  電子と陽電子との発生は,光が原子核の助けをかりて作りだす過程であった。電子と中性微子との発生は何に起因するのであろうか。ベータ線が出る場合,原子核の電気量が増えていることは確かである。フェルミは,原子核の人工変換という現在行なっている実験と結びつけて考えてみる。すでに述べたように,原子核は外から入ってきた中性子を食べて,質量数の一1つ大きな原子核になる。そして間もなくそれはベータ線を放出して別の原子核になる。 「中性子がベータ線の放出と何らかの関係をもつのではなかろうか。また,ベータ線の放出で原子核の電気量は変化するわけだが,原子核が電気量を増やすという事実は陽子が増えたものと理解される。原子核がベータ線を出す場合,外から中性子を打ちこむわけではないが,原子核のなかにはすでに中性子が存在している。ということは原子核のなかの中性子が陽子に変化したと考えなければならない。中性子が陽子にかわるという大変化が,電子と中性微子との対を生む原因と結びついているのではないだろうか」  陽子も中性子も素粒子である。これまで,素粒子が別種の素粒子に変わるという見方はなかった。それが原因であると考えられるような現象があまりなかったからである。ベータ線はまさしくそれを考える動機を与えた最初の現象だった。 「それでは,原子核内の中性子が陽子に変わるのはなぜだろう。さしあたって理由は見当もつかないが,ともかく,結果として電子と中性微子との対が生じることと無関係ではない筈だ」  二2つの現象がどう関係しているかわからなかったが,フェルミは思いきって両者を同一の点で起こるとした。ベックは電子の発生する場所を原子核の外においたが,フェルミは原子核の内部においたわけである。中性子が陽子に変わる際,電子と中性微子とが出る現象がどの程度おこるかはわからない。それは定数におしこめておいて実験でおさえる以外にない。それは簡単な作業だ。こうして,彼はこの考えで電子の放出される割合が,電子のエネルギーとどのように関係するかを定数を除いて計算してみた。それは全く見事にベータ線の観測結果と一致した。一九三四1934年(昭和九9年)のことである。彼は中性子を用いて原子核の錬金術を行なった同じ年,中性子が陽子に,つまり素粒子が別の素粒子に変わる事実,“素粒子の錬金術”をも見つけたのであった。 電子を食べる  フェルミのベータ線の理論は非常によく実験結果を説明しているにもかかわらず,未知の素粒子,中性微子を利用しているという理由から余り評判がよくなかった。  しかし,この理論に注目していたのは大阪の若い物理学者のグループであった。今でもそうであるが,日本ではヨーロッパやアメリカで開かれる会議に出席する機会が少ない。そんなわけで,実際にそこでどのようなアイデアが生まれ討論されたか,会議後しばらくして発表される論文が雑誌にのって配布されるまではわからないことが多いのである。  湯川はO大学に新設されたばかりの原子核研究センターで,フェルミの論文を見てがっかりした。 「しまった。フェルミにさきをこされた」  彼もベータ線の解明にずっととり組んでいたから,先をこされたことでくやしがったのである。だが彼にとってもう一つの衝撃は,同じ年ソ連のタムとイワネンコがフェルミの考えを用いて原子核の力の解明にとりかかったという論文を見たことである。フェルミの理論は,多くの人人が白眼視しているなかで,着々と実りをあげはじめていた。湯川の中間子論のアイデアが生まれるのは,この衝撃をうけたことにはじまるが,それについては別の章で述べよう。  一九三五1935年(昭和十10年)にベックはディラックと共に来日した。日本のグループにとって,それは一つの刺激であった。ベックのベータ線の理論は正しくはなかったが,重大なヒントがかくされている。湯川と坂田とは,早口にしゃべるベックの説明から敏感にそれを感じとっていた。ベックの考えでは,原子核の近くで発生する電子と陽電子との対のうち,陽電子は原子核にとらえられるという。その際電子・陽電子の対を生じるガンマ線は,原子核が内部で刺激された状態から安定な状態に移る際に発生するものかも知れない。それなら,発生した陽電子が原子核につかまらずに外部に出ることもあるだろう。坂田は,原子核の変化によって生じるガンマ線が電子対を創生するという計算を始めた。  しかし,もっと面白い問題がある。それは陽電子が原子核にとらえられるというベックの考えを用いて,フェルミの理論を再検討することだ。フェルミの考えた過程では,電子と中性微子が対になって放出されたものがベータ線であり,同時に,中性子が陽子となるため原子核の電気量が増える。もしこの理論が正しければその逆もまた可能であろう。つまり電子を原子核に入れると,陽子が中性子になり,同時に中性微子を放出することもおこるだろう。原子核にとらえられる電子を別に用意する必要はない。原子では原子核のまわりに電子がうろうろしているから,一番近いK軌道の電子が候補者になる。中性微子は観測がむずかしいので,この現象ではK軌道にあいた穴を埋める電子の動きをつかむことがきめ手だ。それには,外側の電子が内側にできた空席にうつるとき発生するX線を測ればよい。ともかく,この現象は奇妙なようでもフェルミの理論のテストになるという点で,湯川と坂田との意見は一致した。  このK電子捕獲という現象の予測は,原子核物理学において日本が果たした最初の輝かしい貢献であった。しかし,フェルミの理論さえもまだ市民権を得ていない世界の学会が,名も知らぬ日本の若い物理学者の説をうけいれるわけがない。まだ,ボーアの魔法は多くの人々を支配していた。コンプトン効果においてもエネルギー保存則が成り立っていない……というシャンクランドの間違った実験のほうが評判になる時代であった。  一九三八1938年(昭和十三13年)になって,フェルミの弟子アルバレによって,湯川と坂田との予想ははじめて確認されることとなった。こうしてベータ線の理論,つまりそのなかに含まれる素粒子の変転の考えは,確立していったのである。中性子が陽子に変わることもあれば,陽子が中性子に転ずることもできる。電子は中性微子に,中性微子は電子に変化する。たとえば先のK電子捕獲では電子が中性微子に変わったとみることができる。素粒子は生成・消滅するばかりでなく互いに別の素粒子に変転する。物質の奥にはこのような変動の世界が存在していたのである。 中性微子のプレゼント  ロスアラモスの二2人の実験物理学者レインズとコワンとは,サバンナ河にある水爆生産用の巨大原子炉を純粋な学問のために利用しようと思っていた。その頃,物質の究極要素と考えられる素粒子は急速に種類を増していた。つぎつぎと新種の素粒子が宇宙線で発見されたからである。しかし,パウリが導入した中性微子は四4半世紀たった当時でも,まだ見た者がいない。もはや誰も中性微子の存在を疑えないほどベータ線の理論は確かなものになっていたが,中性微子は正確にはまだ架空の粒子であった。彼らは原子炉を利用して中性微子をとらえようと企てたのである。  原子炉のなかには莫大な数の中性子がある。裸でとびまわる中性子は十五15分ほどの間に陽子になり,同時に電子と中性微子とを放出する。フェルミがベータ線で考えたのと同じ過程である。原子炉は分厚い鉛の遮蔽物で囲まれているから,危険な放射線はすべて外部にもれない。だが,例外は中性微子である。遮蔽物を通って,中性微子は毎秒一〇10億の一〇10億倍(1018)個くらい外部に放出されている筈で,それが測れないことはないだろうと,レインズとコワンは考える。  彼らはカドミウムを混ぜた水をみたした巨大な水槽を用意した。水槽のなかにとびこんでくる大量の中性微子は,水中の陽子を再び中性子に変え,自分は陽電子になる。この陽電子はたちまち電子と一緒になり消滅してガンマ線に変わる。ガンマ線を見れば,けっきょく中性微子をとらえたことになる。  レインズらはこれで中性微子が簡単につかまると考えていたのだが,期待した現象はほんの少し起こっただけであった。平均して見ると一1時間に三3つほど中性微子をとらえたことになる。莫大な数の中性微子はほとんど,レインズとコワンとの水槽をこともなく通りぬけたわけだ。  だが数の多少にかかわらず,彼らが中性微子の存在を証拠だてたことに変わりはない。一九五五1955年(昭和三十30年),ロスアラモスで行なわれた中性微子発見の盛大なパーティーでは,出席したお客に紙箱の贈り物が用意されていた。箱をあけてみるとなかは空であったが,箱のふたには“二三〇〇2300個の中性微子が入っていることを証明する。レインズ・コワン”と書かれていた。  中性微子は星の内部の核反応で宇宙に何千億となく放出されている。地球へも無数の中性微子がやってきている勘定になる。だが,その大部分は物質を通り抜けるだけで,ほんの限られた一部がフェルミの理論と同じ過程で物質を変えている。パウリが,“観測することの非常にむずかしい粒子”と最初にいった通りである。  その後,レインズは一九六五1965年(昭和四十40年)になって宇宙からくる中性微子をとらえた。南アフリカの地下深い金鉱のなかにおいた観測装置には,七7個の中性微子がかかったのである。 汲めどもつきない  大西洋をへだてて,二2つの世界最大の加速器が激しい競争をしていた。一九六二1962年(昭和三七37年)のことである。スイスのセルンの加速器PSPSとブルックヘブンの加速器AGSAGSとが,中性微子を用いた原子核変換を人工的に実現する計画をほとんど同時にたてたからである。  中性微子はまだ謎につつまれた素粒子である。第一にフェルミの理論でも,中性微子と電子との対が放出されることと,中性子が陽子に変わることとの間にどんな関係があるかはわからないままであった。中性微子を用いていろいろな現象を起こさせることができれば,その関係がわかるかも知れない。また,その後の研究でわかったところでは,湯川の導入したパイ中間子は坂田が予想したようにミュー中間子に変わる。その場合にも,ミュー中間子と同時に中性微子が放出されると考えられている。だが,電子と組になるパウリの中性微子と,ミュー中間子と組になる坂田の中性微子とが同じものかどうか,まだわかっていない……。  加速器を用いると,多数の中性微子をふくんだ強い粒子線の流れをつくることができる。七7年前,レインズとコワンが原子炉で行なった実験にくらべると,このたびは約千倍ぐらい多くの現象が見つかる筈であった。  スタインバーガーを中心とするブルックヘブンの中性微子研究班は,グレーサが発明した泡箱の巨大な測定器をつくることから始めた。一方,セルンのベルナルディーニのチームは測定器の技術上の問題で悩んで多少スタートが遅れた。双方ともが,相手を意識しながら必死であった。中性微子のおこす現象はとらえることがむずかしいうえ,おこった現象が確かに中性微子によるものかどうかを確認するためにも大変高度な技術が必要だった。  陽子加速器が生じる中性微子は,ミュー中間子と組になる坂田の中性微子であり,パイ中間子の崩壊によって生じる。この中性微子を原子核に衝突させれば,原子核は別の原子核に変わり,同時にミュー中間子か,あるいはことによると電子を放出するだろう。しかし,坂田の中性微子がパウリの中性微子と別のものであれば,ミュー中間子は放出されても電子が放出されることはない。レインズとコワンとが原子炉で行なった実験では,パウリの中性微子が電子(あるいは陽電子)を放出したが,ミュー中間子も放出されたかどうかは測られてはいない。  坂田の中性微子が原子核からミュー中間子を放出するとしても,最初のパイ中間子の崩壊から生まれたミュー中間子と区別しなければならない。その区別を明確にするのは,両グループにとって思いもかけぬ障害となった。  この競争は,偶然のことからブルックヘブンのチームに勝利をもたらした。彼らの泡箱に非常に長いミュー中間子の飛跡が見つかったからである。しかし,ミュー中間子が見つかったにもかかわらず電子は見つからなかった。タッチの差で負けたセルンのチームもこれを確認した。坂田の中性微子はパウリの中性微子と違っていたのである。中性微子には二2種類あった。  中性微子がなぜ二2種類あるのか。ベータ線の中性微子はほとんど質量をもっていないが,新種の中性微子もそうであるのか。そのうえ,陽子や中性子とこれらの素粒子の関係,つまりベータ線の仕組は,その後のセルン・チームの熱心な追求によっても,まだ解明されていない。中性微子の導入にはじまった素粒子の変転の問題は,最後にまた中性微子にかえって考えられることになるかも知れない。中性微子は,自然界にある素粒子のうち最も簡単なものと思われている。しかし坂田はいう。 「中性微子といえども,汲めどもつきない」  おそらく,明日の素粒子論は中性微子を中心として展開するかも知れない。 4 中間子誕生 ------------------------------------------------------------------------------- 素粒子論の展開は中間子の誕生によってはじまる。この絶えず泡のごとくあらわれ消える中間子が物質の謎をとく鍵であった。中間子誕生は栄光につつまれた開拓時代の物語である。 新物理学  K大学の門を入ると正面に時計台が見える。右手の工学部の近代建築とは対照的に,左手には古色蒼然たる赤レンガの建物が,ひっそりと,木の繁みにかくれるようにして立っている。最近まで工学部石油化学教室が入っていたのだが,それが移転してしまった今では主もなく,やがてその姿は消えていく運命にある。  だが,素粒子論にとってこの建物は記念すべき意味をもっている。一九二六1926年(大正十五15年),この玄関を入った二人の学生があった。二人の名は湯川(当時小川)と朝永。当時ここに理学部数学・物理学教室がおかれていた。大正の末というその年では明治調の赤レンガの建物はそれほど古い感じをもっていなかったが,三3年後に移転した北白川の新教室とはくらべものにならなかった。日本の物理学も同じように,明治の空気をただよわせていた。しかし日本の外では,物理学は激しくゆれ動きすべてが新しく書きかえられつつあった。その年ハイゼンベルクは量子力学を建設した。時を同じくして,シュレーディンガーは波動方程式を基礎とする別の形の量子力学を発表した。原子の世界における法則体系がほとんど完成したのである。  新しい物理学の持つ魅力が二人の若い大学生をとらえたことはいうまでもない。だが,それは大学で教師から教えられる筈のものではない。むしろ,教師は自分の知らないことを学ぶ学生には冷淡なのが通弊である。二人にとっては,月おくれに入る新着雑誌と書店で時おり見かける新物理の洋書だけが唯一の教師だった。  日本の物理学は新しい進歩に全く扉を閉ざしていたわけではない。長岡は原子模型の先導の役を果たし,石原は相対性理論を日本に導入した。しかし当時の大学は彼らや彼らの仕事を受け入れず,あいかわらず古い物理学が幅をきかせていた。  学生時代の湯川は表面おっとりとして平凡に見えたが,ねばりづよい思考力を内にひめ,朝永は誰の目にも鋭い才が感じられたという。湯川の幅広い構想力が中間子論を生み,朝永のえぐるような洞察力が超多時間理論を建設することになるのはずっと後になるが,その力はこの時代に着々とたくわえられた。  大学を卒えた二人は,無給のまま大学の研究室にとどまった。その頃になって,日本にもようやく新しい学問の波が押しよせはじめる。一九二八1928年(昭和三3年),仁科は電子と光との現象,コンプトン散乱についての“クライン・仁科の式”を土産としてコペンハーゲンから帰国し,R研究所に原子核と宇宙線とを研究するグループを作りつつあった。K大学では,湯川と朝永のよき助力者となった坂田・小林・武谷らが学生として育っていた。新しい学問は古い大学では育ちにくい。それにふさわしい新しい土壌が必要だった。仁科を中心としたR研グループがスタートすると,朝永はそこにまねかれて箱根をこえた。関西では,一九三三1933年(昭和八8年)O大学が新設された。菊池を中心としたグループがつくられ,湯川は京都から大阪へと移った。東と西とにわかれた朝永と湯川は,新しい物理学研究の実質的な指導者として育っていった。日本での新しい物理学の研究が幕をあけたのである。 キャッチ・ボール  チャドウィックの中性子の発見は原子核物理発展の口火を切った。ハイゼンベルクは陽子と中性子とからなる原子核の構造を論じ,進軍ラッパを吹いた。しかし,問題はどうか。なぜ陽子と中性子との集団が固い原子核を作っているのであろう。陽子と中性子とを結びつける力は何か。 「陽子は電気をもっているが,中性子はそうでないから,陽子と中性子とを結びつける力は電磁気力ではない。電磁気的でない力が自然の根本にあると考えることは,決して例がないわけではない。たとえば,二2つの原子核は互いに電気的斥力を及ぼしあうのに,水素原子は結合して水素分子をつくっている。その場合の結合の力も電磁気力ではない。水素分子をつくる力は,二2つの原子が互いに電子を交換しあうために生まれる量子力学的な力である。同じ考えかたは原子核にも当てはまるかも知れない。だが,その場合なにが交換されるのだろう。知られている素粒子,つまり陽子,中性子,電子(あるいは陽電子),光子のなかで,その役割をするものはやはり電子を除いてほかにない。しかし困ったことに,原子核のなかには電子が存在しない。そこが分子の場合と素粒子の場合の違いだ。  力を考える場合に,本当は交換される粒子が必ずしも長くそこにある必要はない。水素分子では交換される電子は確かにそこに存在している。しかし,そうでない場合もある。たとえば,クーロンの力は荷電粒子が相互に光子を交換しあう結果と見ることができる。その場合,光子は荷電粒子のまわりに長くとどまるわけではない。そうすると,原子核内の力の場合にも,原子核のなかに電子が長く存在すると考えずとも,原子核の内部で瞬間的に電子が生まれ,また消えると考えてもよいわけだ。中性子は電子を放出して陽子に変わる。その電子をまたたく間に別の陽子が吸収して中性子に変わる。その結果を見ると,中性子と陽子とは位置を交換したことになるから,両者の間に分子の交換力と同じような力が生まれるだろう」  ハイゼンベルクは,こう考えて電子のキャッチ・ボールという案を提出した。  このハイゼンベルクの説に最も関心をもったのは,湯川だった。彼は核内の結合力の問題をこの考えの線に沿って進めてみようと思った。一九三三1933年(昭和八8年)の仙台の学会で,湯川は,中性子と陽子との間で交換される電子について報告した。しかし,この考えには多少無理があることも,彼自身気付いていた。電子も陽子もともに,スピンという固有な自転能力をもっている。その値はいずれもである。多分,陽子に似ている中性子も同じ値のスピンをもつだろう。すると,中性子が電子を放出すると,角運動量の保存則から,電子放出後の中性子はスピンが0か1という値をもつことになって,陽子に変わったとはいえなくなる。逆に,中性子が自分と同じスピンをもつ陽子になるには,放出する電子はスピンが0か1でなければならないはずで,現実の電子では困るのである。これは,スピンの量がベクトルの合成法則にしたがうことから簡単にわかる。  この報告をじっと聞いていた仁科はいった。 「湯川君の考えは面白い。もっと検討する価値がある。スピンの問題でふつうの電子がもちだせないとすれば,スピンが0か1の電子を考えてはどうか」  これは大胆な忠告であった。スピンが0や1をもつ電子は今まで誰も知らない新しい粒子である。多くの物理学者は新種の粒子を毛ぎらいしていたことを,彼は充分知っている。ふつうなら,新粒子を考える冒険はしたくないところだ。そういう雰囲気のなかで仁科はなお大胆な発言をしたわけだ。  これは重大なヒントであった。なぜならば,けっきょく湯川がのちに提唱することになった中間子は,スピンが0の素粒子であったからだ。だが,湯川は答える。 「その通りです。だが,もしそういう電子があるならば,簡単に実験室で見つかっている筈です。しかし,そういう事実はありません」  確かに仁科のいうような新しい電子,つまり通常の電子とほぼ同じ質量をもつ素粒子があるなら,それは観測されていたであろう。しかし,その粒子が電子と同じくらいの質量をもつ必要はないのだ。湯川はその盲点になかなか気づかなかった。歴史の夜明けにはまだ間があった。  一九三四1934年(昭和九9年)になると,フェルミがベータ線の理論を発表した。この理論は湯川の考えていた問題の欠点を救っているように見えた。中性子が陽子に変わり,電子と中性微子との対が発生する。逆に,電子と中性微子との対が消滅すると,ふたたび陽子が中性子になるであろう。 「この考えを使うと,原子核内の中性子と陽子とが,電子と中性微子との対を交換しあうと見ることもできる。中性微子も電子のようにスピンをもてば,電子と中性微子との対は全体として,スピン0か1になる。つまり,電子だけを交換しあうかわりに,電子と中性微子との対を交換しあうと考え直せば,前に苦しんだ難点はなくなるではないか」  湯川はこう考えるようになった。だが,すでにその年タムとイワネンコとが先を走っていた。彼は愕然とした。考えていた通りのことが試みられていたのだから。しかし論文を読んでいくうちに湯川はほっとしたようである。タムらによると,交換力の大きさは原子核がベータ線を生じて別の原子核になるまでの時間からきまり,それはかなり小さい。だから,得られた力は結局のところ原子核を固めるほど強いものにはならない。つまり,彼らの試みは完全に失敗している。 「もう一度出発点にもどって考え直さなければなるまい。試みる余地はまだ十分残っている」  湯川はそう感じた。だが,急がなければならない。世界中の物理学者はまだ足ぶみをしているが,早晩解決の道を見つけるであろう。誰がまず正しい答えに達するのか……。 日本人の電子  とうとう栄光の日がきた……。一九三四1934年(昭和九9年)の秋,関西をおそった有名な室戸台風がおさまったある日,O大学の菊池研究室では,湯川が彼の新理論について語っていた。 「原子核がつくられている原因は,陽子や中性子などの素粒子間に働く力つまり核力にあります。この力は,電磁気的な力や万有引力といった今まで知られたものよりはるかに強いものです。私は最初,この力が生まれるのは陽子と中性子との間で電子を交換しあう結果だと考えました。これには二つの難点がありました。一つは電子のスピンがであることによるものでした。実際,陽子と中性子との間で交換できる素粒子はスピンが0か1でなければならなかったのです。二つめは,仮にスピンが0か1の新しい電子があるとしても,それは簡単に見つかっていなければならないのに,誰も見たものがないという点です。  ところが,非常に簡単なことを忘れていました。それは,核力が原子核の大きさ以上に到達しないという事実からくる問題でした。力の到達距離と,交換する素粒子の質量とは反比例します。したがってこの到達距離におさまる新しい電子の質量は,ふつうの電子の二〇〇200倍程度でなくてはならなかったわけです。  もちろん,新しい電子もふつうの電子のようにプラスかマイナスの電気量をもっています。しかし,その質量が非常に大きいため,それを作りだすには一1億電子ボルトという高いエネルギーが必要なので,今まで見つからなかったとして不思議ではなかったのです。  核力は今までの力とは全く違った新しい性格をもっています。これは今まで知られた素粒子だけを考えていたのでは解決できないと考えました。そして,核力の原因として電子の二〇〇200倍の質量をもち,正・負の電気量をもち,スピンが0である素粒子を交換しあうのだという仮定を導入してみました。これを重量子とよぶことにします」  湯川の説明は,なお続いた。彼は,突然襲った台風の刺戟で急にいろいろな着想がまとまったようであった。彼によると,核力がこの重量子の交換によって生まれるばかりでなく,ベータ崩壊も重量子を媒介として起こる。つまり,中性子はまず陽子に変わる際重量子を放出し,重量子が電子と中性微子に変わるというのである。そのうえ宇宙線でも,地球外からくる陽子や重い原子核が空中で空気のなかの分子と衝突すると,強い核力によってまず最初に重量子を叩き出す筈だから,宇宙線のなかには電子にまじって重量子が多数あることになる。  ミクロの世界に関する自然現象のほとんどすべてが,この重量子をかなめとして起こっているかのような壮大な理論に,出席者たちはじっと聞き入っていた。やがて,菊池はいった。 「荷電粒子ならば,霧箱でとらえられる筈ですね」  その通りである。重量子がまず検出されるとすれば,宇宙線現象こそその狩り場でなければならない。 「この理論が正しければ,粒子は必ず宇宙線のなかで見つかるでしょう」  湯川は信じた。仲間の人々もそれを期待した。  こうして湯川の中間子論は生まれた。湯川の自信にも拘わらず,海外の物理学者はこの理論にほとんど関心を示さなかった。こんな話がある。その頃,ボーアが来日した。湯川はボーアに会いにいき,彼の中間子論の話をしようとした。だが,ボーアは一言でそれをおさえてしまった。 「君は新しい粒子が好きか」  彼は新粒子が嫌いなことで有名だ。だが,そのこと以上に湯川理論が余りにも大胆な冒険だったからである。そのうえ,不運にも,たちまち見つかるだろうと考えた中間子すなわち重量子は,宇宙線でもなかなか尻尾を出さなかった。  中間子論にとっての幸運は,二2年余りたってようやくおとずれた。一九三七1937年(昭和十二12年),陽電子の発見者アンダーソンとネッダマイヤーとが,宇宙線のなかに電子と陽子の中間の質量をもつ新粒子を発見したからである。 「これは自分の予想した重量子に違いない」  さっそく湯川は主張した。オッペンハイマーとサーバーがこれと同じ見解をのべて湯川を支持した。とうとう,湯川理論は世界におどりでたのである。湯川グループはささやかな祝杯をあげることになった。中間子は最初いろいろな名でよばれた。重量子とは,もう一つの量子,光を軽量子と呼ぶと英語のライトを二つの意味に使えることから,湯川が得意になってつけた名だ。そのほか重電子,U粒子,湯川粒子,日本人の電子,メゾトロン,メソン等の名がある。パイオンという現在の名は,戦後に生まれた。日本名は中間子,またはパイ中間子である。 素粒子論はじまる  中間子論は素粒子の世界への導火線であった。いままで,与えられた経験だけを何とか理解しようとしていた人々も,その経験の背後にかくされた多彩な世界の存在に気づきはじめた。観測された材料をつなぐだけが科学の仕事ではない。事実の背後にある未知の材料が,時にはそれ以上に深く経験を説明するのである。  十九19世紀に電磁気現象が観測された時,ファラデイは現象の背後に“場”の存在を想像した。電磁場は直接目に見えるものではないが,それによって,電流を通じたコイルが生む磁気的作用は磁石がひき起こす磁気的作用となぜ同じであるのかが理解できる。電流を通じたコイルのまわりに生じる磁場と,磁石のまわりに生じる磁場が同じだからである。すると,磁場という概念を利用すれば,いろいろな現象がひとまとめにとり扱える。同じ磁場なら,それを生じる原因が違っても同じ結果を期待できるからだ。磁場と電場とは,電磁気現象を理解する基本概念となった。すべての電磁気的な力は電磁場の存在する結果なのである。  陽子と中性子との間に働く力……これは電磁気力と内容も違い,また,それよりもけた違いに強い。だが,その力の背後にも核力の場という場の概念をもちこむことができる。つまり,この場合も電磁場と似た考え方をするわけだ。  それだけではない。プランクとアインシュタインとの努力の結果,電磁場は光子の集団であることがわかった。電子の集団も物質波の場,つまり波動場として理解される。逆にいえば,波動場は生成消滅をくり返す電子と陽電子との集団と見られる。どんな力もそれに相当した場の結果である。そして,場は素粒子の集団と見ることができる。こういう一般的な筋道を大胆に進めたのが中間子論であった。原子核を固く結びあわせている力から,核力の場に,そしてさらに中間子の集団が考えられるのである。  核力は中間子をともなわなければならなかった。湯川理論が出たあとでは,これはきわめて当然のことのように聞こえる。おそかれ早かれ,世界の誰かが同じ結論に達したであろう。実際湯川と同じアイデアをもった人々も何人かいた。しかし,しょせんはコロンブスの卵である。ともかく,力と,場と,素粒子との関連は,以後の素粒子論の重要なテーマとなったのである。  中間子は短時間の間に崩壊する。電子も陽子も中性微子も,このような性質を持たなかった。例外となる中性子といえども十五15分という長い時間でようやく陽子に変転する。中間子の寿命は短くて,とてもそんなものではない。ところが素粒子が急速に崩壊するという事実は,中間子にだけ生じる例外的現象ではなかった。むしろ,多くの素粒子にとってはこのほうが一般的な性格であることが,その後次第にわかってくる。新しい物理学は,中間子の誕生を境として,ほとんど半永久的に存在する粒子だけを問題にした過去の物理学と袂をわかったのである。瞬間的にだけあらわれる粒子を追う物理学は虚構なのだろうか。そうとはいえない。そのことによって,半永久に存在する粒子の性質もより深く理解できるからだ。中間子誕生によって,本当の意味の素粒子論が始まったといえるのである。  中間子論の本筋をはなれて考えるならば,湯川理論が陽の目を見たことには,かなり偶然がさいわいしていた。R研からO大学に移った坂田は,湯川と共同で中間子論の検討にあたった。相対論的量子力学を使って中間子論を整備する仕事である。ところが驚いたことに,しらべ直した結果では中性子と陽子とには反発力しか得られない。これでは陽子と中性子とをかためて原子核をつくることなど思いもよらない。湯川がはじめに発表した理論では途中で計算を誤って都合のよい結果をだしていたわけだ。それでは湯川中間子論は本質的に間違っていたのであろうか。だがこのことに気づいたその年,既に宇宙線中にそれらしき粒子が見つかっていた。細部はともかく,理論の大筋は違っていない。それならば,解決の道はかならずある筈だ。スピン0の中間子が駄目なら,スピン1の中間子を考えればよい。湯川の周囲に集まった人々,坂田,武谷,小林はこう考えて,この問題を解いていった。さきごろ不幸にも亡くなられた坂田は,死の床で当時を思いだしてうわ言をいわれたという。 「スピン0の中間子では駄目です。スピン1の中間子がよさそうです」  海外でも,フレーリッヒ,ハイトラー,ケンマー,バーバが同じ問題にとり組んだ。彼らはいくつかの別の解答を出した。湯川理論を救う道は沢山あった。そのいずれが正しいのか。最終的判定ができたのはずっとのちの一九五一1951年(昭和二六26年)になってからである。それによると,中間子はやはりスピンは0であるが,最初の予想とは少しばかり性質の違ったものだった。  宇宙線の現象が明確になると,宇宙線中で発見された粒子が,果たして湯川の中間子であったかどうかが問題になってくる。中間子は陽子と中性子を結びつける強い力の原因である。このことからいえば,中間子はたとえ空中で発生しても,その同じ力が原因になって非常に短時間で空中の原子核に食べられてしまう。使われている測定装置,霧箱ではその短い時間の間に中間子をとらえられるわけがない。発見された粒子を湯川の中間子と考えたほとんどすべての物理学者は,なぜアンダーソンたちがこれほど短命な中間子をとらえることができたのか,かえって不思議に思った。のちになってようやくその理由がわかった。実は,アンダーソンらがとらえた中間子は湯川の予想した中間子とは全く別物であった。それはのちに坂田が予言した別種の中間子だったのである。正確にいえば,空中では確実に湯川中間子は発生したが,それはすぐ崩壊して,霧箱では見えない。しかし,その結果生まれる代役の坂田中間子が霧箱で見えていたわけだ。だが,湯川が,宇宙線中に見つかるだろう,といったことは正しかった。湯川の中間子が本当に確かめられたのは一九四八1948年(昭和二三23年)である。 「中間子論を発表した当時はすごく自信があった。だが,中間子の存在が確実なものとなってくるにつれて,私はだんだんと懐疑的になった」  湯川は回想している。そんな事情にもかかわらず,世界の学界は中間子をめぐって動いていた。それほど中間子は素粒子論において中心的位置を占めるものであった。 ピクニックの収獲  一九四二1942年(昭和十七17年)の春,奈良の若草山の芝生では,サークルになった数人の人たちがときおり笑い声を立てながら何やら楽しそうに話しあっていた。今では普通に見かける光景であるが,その頃日本は第二次大戦に突入していたし,ましてその朝日本がうけた最初の空襲のために全土に警戒警報が発令されていたから,ピクニックの一行は人の目をひいた。もし,不思議がって彼らの話に耳を傾けた通行人があったなら,その内容がおそろしく難しいものであるのに驚いたであろう。  一行は,湯川,坂田,小林,谷川,井上といったK大学とO大学の理論物理学者たちであった。彼らは,中間子論の難問題にとり組む日々の疲れをいやすために奈良のピクニックを計画したのである。  その頃,中間子論はいたるところで障害につき当たっていた。中間子が陽子とどれくらいの割合で衝突するかを実際に測ると,その答えは理論で予想されるほど大きくない。仮に,理論どおりとすると,宇宙線のなかの中間子は大気の上層でとばされてしまって,地表まで充分貫通してこない筈だ。ところが実際には,大気を貫通する宇宙線の成分はほとんどが中間子である。多分,理論のどこかに欠陥があるのだろう。これをどう解決するか。答えを発見しようとして,朝永,小林,内山などが,バーバ,ハイトラー,ウイルソン,ウェンツェルらと激しい競争をしていた。  だが,理論にとってそれよりももっと大きな難関がある。中間子が,電子と中性微子とに変わるまでの時間を計算すると,観測されるよりも一〇〇100倍も早いという答えが出てしまう。これでは,中間子は発生してもまたたく間に消えるから,宇宙線の測定器で見える筈がない。勿論,宇宙線で見ているように,中間子がゆっくり崩壊するよう理論を調節することもできるが,今度は原子核の力のほうが桁ちがいに弱くなってしまうのでうまくない。そればかりではない。宇宙からくる原子核は核力の原因となる強い相互作用で大気中の原子核に衝突して大量の中間子を生じている。中間子が長く生き残るように調節した結果では,問題になるほど大量の中間子を空中で叩き出す筈はないという答えがでてしまう。中間子発生の割合を大きくして,なおかつゆっくり崩壊するようにというのは慾ばった要求だ。あちらを叩けばこちらがひっこむという具合でうまくいかない。ともかく,全部の現象をつじつまがあうように説明するのは非常にむずかしい。  こんな問題に頭を悩ましていた連中のことであるから,ピクニックがいつの間にやら討論会に変わっていたのも不思議ではない。  坂田が口火を切った。 「昨日谷川君と話している時,彼がいいだしたのですが,中間子の崩壊寿命が理論で短くなりすぎるという難点をすくうには,もう一1つ別の中間子を仮定するのがよさそうです。その二2種の中間子の間に相互作用があるとすれば,それはかなり特異なものになり,結果はうまくいくように思われます」  谷川があとを引きとった。 「要するに,核力が小さな距離で特異になりすぎる欠点を除くために,メラーとローゼンフェルドは二2種の中間子場の混合を考えましたが,この方法を拡張して用いてみようと考えたのです」  当時,核力にも難点が出ていた。中間子論で求めた答えは,素粒子間の距離が小さいところで強い特異性をもちすぎるため,そのとり扱いに困る。メラーとローゼンフェルドとは,スピン0と1との二2組の中間子場を一緒に考えあわせることで,それぞれから生まれる特異性を打ち消す理論を提唱していた。彼らは二2種の中間子を考えたのである。谷川はこれにヒントを得た。 「二2種の中間子としては,それぞれスピン1と0のものを考えるわけですが,スピン1の中間子のほうが質量が重いと仮定すれば,スピン1の中間子がスピン0の中間子に崩壊できます。それで,核力の問題の大部分はスピン1の中間子に負わせる。つまり,湯川中間子はスピン1をもつほうがよいという武谷さんの主張通りにして,宇宙線で見られる寿命の長い中間子はスピン0とすればよさそうです」  湯川は二人を元気づけるようにいう。 「なるほど,僕は違った意見をもっているけれど,それもうまい考えだね。それでひとつ実際にしらべてみてはどうです」  彼はこの問題はもっと根深いもので,根本的な解決を探さなければならないと思っている。しかし,別のやり方があってもよい。坂田は谷川と多少違ったやりかたを主張した。 「昨夜考えてみたのですが,谷川さんはメラーたちと似た線を考えていますが,私は少し方向を変えたほうがすっきりしそうに思います。宇宙線の中間子は,クリスティや日下(くさか)さん,それに小林さんの分析などではスピンは0かかですから,もうひとつの可能性として宇宙線の中間子をスピンにしてはどうでしょうか。つまり,核力の中間子は今まで通りとして,それが宇宙線中間子と中性粒子の組に崩壊するとします。どうですか,井上さんの意見は」  坂田はかたわらにいた井上の同意を求める。 「私も今日電車のなかで坂田さんよりうかがったのですが,坂田さんの考えのほうが,核力の中間子が一方では陽子・中性子の組と,他方では宇宙線中間子・中性粒子の組というようにいつもスピンの粒子と相互作用することになって,審美的でよさそうに思えます」  宇宙線のなかの中間子の分析をやっていた小林は多少心配そうにたずねる。 「しかし,そうすると宇宙線中間子が崩壊する場合,相手は電子と中性微子だけでなく,他にスピンの中性粒子が放出されることになりますね」  坂田がうける。 「そういうことですね。それでは困りますか。たとえばその中性粒子は非常に軽いとして」 「それも面白いかも知れない。坂田さんはベータ線の現象は中間子を通しておこるという考えよりもフェルミの理論でよいという意見だから,宇宙線現象さえうまく説明すれば,他はよいだろう。ともかく,二つとも面白いから手分けしてやってみてはどうだろう。坂田さんと井上さんはスピンの宇宙線中間子の場合,谷川さんはスピン0の宇宙線中間子の場合をやってもらうということにしよう」  湯川は最後をしめくくった。  こうして,奈良のピクニックは思いもかけぬ収穫をあげることになった。谷川と坂田とによって二2つの二中間子論が生まれたのである。中間子は二2種類あるのだろうか。それらのスピンの値はいくらか。再び自然への挑戦がはじまった。 鍵の手  中間子論の混乱を解く糸口,二中間子論は,戦争で情報の全くとだえた時代に日本でだけ考えつかれたものだった。海外の物理学者は知らなかったことであるが,日本の物理学者たちは平和な時代が来て,その理論の検証ができることを待ち望んでいたのである。戦争が終わった……。  やがて一九四七1947年(昭和二二22年),イタリアのコンベルシ,パンチーニ,ピッチオーニは宇宙線の実験から驚くべき事実を発見した。宇宙線のなかの負の電気をもつ中間子が物質中にとまると,急速に原子核に吸収されるという一九四〇1940年(昭和十五15年)の朝永と荒木との計算結果に反して,それらが吸収されずに崩壊していることを見つけたからである。中間子が吸収されずにどのくらい崩壊するかをフェルミとテラーが求めたところ,理論と実験の間に一1兆倍という開きがある。これは明らかに,宇宙線の中間子が湯川の予言した中間子と違うらしいことを物語っている。だが,それだけですぐ,中間子に二2種類あるとは断定できない。  しかし,二中間子論の正しさを決定づけるにはそれほど時間がかからなかった。イギリスの宇宙線研究グループが原子核用写真乾板の技術を開拓していたからである。南米ボリビアのアンデス山頂におかれた原子核乾板を検討していたパウエル,オキアリニ,ラッテスらの三3人は,一九四七1947年(昭和二二22年)に,鍵の手のようになった粒子の飛跡を発見した。これはどう考えても二2つの,いずれも電子より重い粒子の飛跡である。二2つの粒子のうちの重い中間子が軽い中間子に崩壊しているのである。彼らは重い方をパイ中間子,軽いほうをミュー中間子と名づけた。パウエルたちは中間子に二2種類あることを世界ではじめて知ったと思った。  アメリカのマルシャックとベーテとは,このしらせをうけて彼らの二中間子論を提唱し,ローマ・グループの実験をも説明した。日本では,マルシャックらの論文を通してパウエルたちが二2つの中間子の存在をつきとめた事を知ったのである。ニュースに対する日本での受けとりかたは海外の場合と違っていた。坂田と谷川の理論が五5年も前にできていたからである。確かに日本の二中間子論は一歩を先んじていた。しかし,三様の二中間子論がそろった時点では,最後の優劣をつけるものは理論の微細な差である。いずれの二中間子論がよいかをしらべる地味な仕事に武谷,中村らがとり組んだ。そして最も美しい形をとった坂田と井上との,宇宙線中間子をスピンとする二中間子論が生き残ることになった。  中間子論にとってもう一つの記念すべき日が,その翌一九四八1948年(昭和二三23年)にやってきた。戦時中に建設中止になっていたカリフォルニアの一八四184インチ・シンクロ・サイクロトロンがこの年運転を開始した。パウエルとの共同研究によって得た原子核乾板の技術をもって,ブラジルのラッテスは,この三3億電子ボルトのエネルギーをもつ陽子を物質に叩きつける器械に挑戦した。そして一1週間後,ガードナーとラッテスは,乾板に写しだされた鍵の手の形をした中間子の飛跡を感慨をもって眺めていた。ついに,中間子は人間の手によって創造されたのである。乾板には,湯川の予言したように,陽子が原子核を叩いた結果生じた核力中間子があった。そして,核力中間子の飛跡のおわりから,坂田が予期したとおり,宇宙線中間子の長い飛跡が鮮やかにえがきだされていた。 5 新粒子出現 ------------------------------------------------------------------------------- 新しい素粒子が思いもかけずあらわれた。そして日本の若い物理学者達の努力が実を結ぶ。だが,新粒子の謎はさらに新しい謎を生んでゆく。鏡のなかの世界は違っている……。 招かれざる客  一九五一1951年(昭和二六26年)の夏,T大学の一室には寒暖計がふっとぶかのような熱気がみちていた。真夏のせいもあるにはあるが,それ以上に熱い討論が続いていたからだ。集まった面々はほとんど二十20代の若い理論物理学者であったから,暑さなど眼中になかった。ましてや,いまとり組んでいる問題が彼らを惹きつけて誰も席を立とうとしない。  問題は新しく発見された素粒子に関係している。一九四七1947年(昭和二二22年),宇宙線研究者ロチェスターとバトラーは,霧箱にとびこむ宇宙線のなかにV字形におれた飛跡を二2例みつけた。どう見ても,いままで知られているどんな素粒子の飛跡とも違っている。報告を読んだ人々は奇妙な感じをいだいたが,ことの重大さに気づくには多少時間が必要だった。その間に各地の宇宙線研究者は,つぎつぎと新しい発見を報告し続けた。その二2年後にパウエル・チームは,電子の約千倍の質量をもつと思われる荷電粒子が三3つのパイ中間子に変わっている現象を一1例みつけた。一九五〇1950年(昭和二五25年)になると,アンダーソン・チームはV字形を三四34例,翌年パウエル・チームは四三43例という具合に発見が積み重なる。もはや新現象は動かし難いものとなった。  それまで,素粒子は,電子,光子,陽子からスタートを始め,中性子,中性微子,パイ中間子,ミュー中間子と,その種類を増している。もうこのあたりでストップ願いたいと思っていた物理学者にとって,新種の素粒子らしいものの発見は,招かれざる客の到来に見えた。だが,希望とは別に,それは否定できない事実である。  まず考えられることは,新種の粒子はいままで知られた素粒子を複合したものではないか,という説である。藤本と宮沢は,陽子や中性子などの素粒子にも原子や原子核のように,刺戟されてできる励起状態があり,それではないか,と考えてみた。素粒子が何らかの原因で異常に高いエネルギーをもつことも,考えられるからである。だが,それでは決定的に説明できない点がある。  新素粒子(縮めて新粒子という)は,中間子の場合と非常に似た振舞を示している。それらは,パイ中間子とほとんど同じくらい“かなり大量に生まれている”。それにもかかわらず,ミュー中間子と似て,“ゆっくりと崩壊している”。励起状態説をとると,大量に生まれることは説明できても,それらの状態はまたたく間に安定な状態にもどってしまう。つまり,すぐに崩壊することになり,とても霧箱で測れるほどの時間はない。やはり新種の素粒子と考えたほうがよさそうに思える。それにしても,発生と崩壊との違いはどう考えたらよいのだろう。  問題は坂田・谷川の二中間子論の場合と非常に似ているように見える。だが,二中間子論の成功したやりかた,つまりパイ中間子が生まれミュー中間子が遺産をうけて長生きするといった親子関係の考えかたは,この場合には使えない。衝突して新粒子を生む両親の粒子も陽子やパイ中間子なら,生まれた新粒子がまた崩壊してできる粒子も,陽子やパイ中間子といった同一人物に違いないからである。二中間子論はいわば,アリバイの一部が破れて解決したのだが,今度の場合は登場人物が完全で密室殺人事件と似ている。  この新しいパズルを今度は自分が解いてみせるぞと,集まった若者達は皆野心満々であった。 偶数と奇数  どんな問題に当たっても,懐疑派・慎重派・冒険派の三者が生まれる。科学をつくっていくのは人間だから,研究者の個性が出るのは当然である。  会津・木下組は懐疑派を代表した。 「こんな問題がおきるのは,現在のわれわれの理論が精密計算をすると答えが無限大になるといった欠陥をもっているからだ。もし完全な理論ができるならば,そのとき問題は一切なくなるだろう」  成る程,確かに新粒子の崩壊する現象の一部を計算すると,無限大の答えになる。質問が出る。 「しかし,簡単な計算で大きさをあたっても,やはり早く崩壊しすぎるという答えが出るが」 「そんな計算はあてにならない。ちゃんとした精密な計算で,将来どういう理論を作ればよいか,それを考えるのが賢明だ」  彼らは最初,無限大の答えをもつ計算結果を示し,無限大の項は将来なくなるからといって,その項をおとした。すると,残りの部分から出した崩壊の寿命は観測にあうほど長くなったから不思議である。誰かがつぶやく。 「まるで手品だね。消しゴムで消すと答えは望み通りになる。だが,仮に将来の理論で無限大の項は有限になっても,それがゼロになるという保証はない」  藤本・宮沢組はかなり慎重である。 「新粒子は核子の励起状態と考える僕らの理論では,寿命が極端に短くなってしまう。しかし,もし素粒子や励起状態を記述する量のうちでまだ我々が知らないようなものがこぼれており,その量の変化の違いが反応をコントロールしているならば,励起状態が,そのコントロールによって核子になかなかこわれない場合もあるだろう。だから,もう少し観測例を積み上げて,これら全体を支配する規則性を探すべきだと思う」 「では,そういう未知の量のコントロールを考えることによって,いまの理論で求めた結果と桁違いの答えが出て,長い寿命が説明できるのだろうか」 「それは何ともいえない。まだ実験値も固定したと思えない。あるいは理論に都合のよいようもっと実験値が短くなるかも知れない。こまかい数値をあまり深刻に考えるのは早すぎるのじゃあないか」  確かに彼らのいうことにも一理ある。その時点ではまだ,新粒子の現象の全貌がつかめていなかった。 「しかし,我々はすべてが終わるまで待つわけにはいかない。わかっている事実を足場にして飛躍すべきだ。それが理論家の役目なのだ」  南部・山口・西島組と大根田とは,こういう冒険をしようとした。 「新粒子を含めると,素粒子相互の交渉の仕かたには,いろいろなものが考えられ,その点が二中間子論の場合と違っている。二中間子論の出現までは,陽子,中性子とパイ中間子の組みあわせは一1種類しか考えられなかったから,相互作用のバラエティを考えるとすれば,中間子の種類を変えるしか手がなかった。今は事情が違って,いろいろな種類の新粒子がある。そうすると,こういう手が考えられる。発生では新粒子が対であらわれるとし,生まれた新粒子は各個で崩壊すると考える。そうすれば,発生と崩壊とのしくみが全く別ものと見なせるから,困難は解消する筈だ」 「なるほど。しかし,新粒子が対で生まれるとする証拠はあるのか」 「確かにそういう観測例はないから,これは大仮定だ。しかし,今のところそれを否定する証拠もない」  乾板で観測されているのは,すべて新粒子の崩壊の様子で,そこには新粒子は一1個ずつしか登場しない。それらの新粒子が発生したところ,それは乾板からはみだしている。彼らは,その見えない地点で新粒子が対をなして発生するとみる冒険を行なったわけである。  しかし,その冒険からは一番無理のない結果が導ける。それが強みなのだ……。  太平洋をへだてて……プリンストン高級研究所では,早耳のパイスが日本の若い物理学者の結論を知った。 「これだ。対発生が新粒子の謎をとく鍵である」  パイスは,どの新粒子にも1の数を割りふり,もとから見つかっていた旧粒子,つまり陽子,中性子やパイ中間子には0を当てた。まず,二2つの旧粒子の衝突から二2つの新粒子が対で生まれているなら,割りふった数の和は偶数となる(0が二2つ,1が二2つ)。崩壊は,新粒子一1個から二2つの旧粒子が生まれているから,割りふった数の和は奇数となる(0が二2つ,1が一1つ)。そこで,割りふった数の和が偶数のときは,素粒子の交渉は発生のときのように強いものとし,逆にそれが奇数のときは,交渉は弱くて崩壊の時間が長くなるように理論を作ればよい。パイスはこう考えたのである。このパイスの一九五二1952年(昭和二七27年)の提案は“偶奇法則”としてもてはやされた。しかし,そのヒントは日本で生まれたといえる。 架空の世界  新粒子は一九五三1953年(昭和二八28年)を過ぎると,ようやく明確な姿をあらわし,日本の対発生の理論やパイスの偶奇理論は多くの人々の関心を集めた。だが結論を出すには宇宙線のデータでは少なすぎる。やはり人工的に新粒子を作ってしらべるにこしたことはない。新粒子の追求は加速器にバトンタッチされた。期待の加速器コスモトロンが登場したからである。  その年日本で行なわれた国際会議では,新しく持ちこまれたコスモトロンによる新粒子現象の分析結果が話題をさらうことになった。日本の若いグループも国外の出席者パイスも,自分たちの理論がまず成功したと喜ばされ,次に全く駄目になる点を知ってすっかり意気消沈したのである。  実験結果は,多くの新粒子が対になって発生していることを確かめた。対発生の理論は正しかった。しかし,実験はさらに,ある種の新粒子が新粒子に崩壊している,というデータも提供した。このデータは,新粒子が崩壊するしくみについて対発生の理論や偶奇理論に不備があることを示している。新粒子が陽子やパイ中間子に崩壊しているだけならば,新粒子が一1個だけ関係するから発生と違ったしくみが考えられる。しかし新粒子が新粒子に崩壊するというケースでは,新粒子が対になって関係していることと同じだから,これと発生とを対発生理論や偶奇理論で区別して考えられないのである。つまりそれらの理論では,この新粒子の寿命が長くなることが説明できない。カスケード粒子と名づけられるこの奇妙な粒子のおかげで,二つの理論はともかく最初から出直さなければならなくなった。  再スタートははじまった……。  西島は,対発生の理論の結果を整理しながら,パイ中間子と陽子との衝突で注目された“アイソスピン”を用いて新粒子の発生・崩壊を考えてみようと思いついた。  原子核内の陽子と中性子との振舞は非常に似ている。多くの場合はほとんど区別なく,ひとまとめにしてとり扱った方が便利に見える。この目的からハイゼンベルクはアイソスピンを考えだした。スピンは現実の空間における素粒子固有の回転をあらわす量である。アイソスピンという似た名を用いたのは,架空の世界を考えて,そこでの回転をあらわそうとしたからである。架空の世界,つまりアイソ空間で陽子は右まわり,中性子は左まわりの状態と約束すれば,それら二2種類の素粒子はアイソスピンをもつ一1種類の素粒子,“核子”としてとり扱えるわけだ。つまり,陽子は核子のアイソスピンの成分がプラスの状態,中性子はそれがマイナスの状態と見ることができる。そうすれば,原子核内では核子という素粒子だけを考えればよい。ハイゼンベルクがアイソスピンを考えだしたときには,それは全く形式的便法だった。陽子と中性子とだけを考えている間は,アイソスピンはそれほど重要なものではない。パイ中間子が登場し,その振舞がしらべられるようになると,この事情は一変する。パイ中間子にはプラス,ゼロ,マイナスの電気量をもつ三3種類のものがある。核子と同じように,パイ中間子にもアイソスピンの考えを用いて,三3種類のまわりかたの違う状態があると見て,そのアイソスピンを1と考える。つまり,その成分として+1,0,-1という三3つの値が可能であるから,これをプラス,ゼロ,マイナスの中間子に割り当てる。実験結果をしらべてみると,核子とパイ中間子との相互作用は,スピンを含めた角運動量が保存するように,架空の世界で回転の角運動量とみられるアイソスピンも保存している。こうなってくると,素粒子について,現実の世界だけでなく架空の世界の行動を見るのもまたひとつの重要な問題である。 「新粒子の発生がパイ中間子発生の場合と同じように多ければ,新粒子の発生のしくみでも,アイソスピンは重要な役を果たすに違いない」  西島はこう考えて,アイソスピンを対発生の理論と結びつけようと努力しているうちに,いろいろと重要なことに気づいた。 「新粒子を大別すると,核子より重いものと,核子より軽いものとがある。前者はロチェスターらが発見したV字型の飛跡のもの,後者は,パウエルの発見した三本足型の飛跡をもつものである。V字型の新粒子は核子と性質が似ているのだが,電気量がプラス・ゼロ・マイナスと三様なので,アイソスピンは核子のと違って1と考えられる。ところで,新粒子が発生する場合,パイ中間子が核子に衝突して新粒子の対になるとすれば,架空な世界のアイソスピンが保存する必要から,V字型の新粒子と組みになるのは三本足型の新粒子で,そのアイソスピンはであろう。こういう検討を行なっていくと,いろいろな新粒子のもつアイソスピンがきまってくる。素粒子の現実の世界の振舞よりも,架空の世界の振舞の方が簡単である。そのうえ,アイソスピンは素粒子のもつ電気量と関係しているから,観測によって電気量のあるかないかを知れば,アイソスピンの決定に証言を与える」  この点に注目した彼のねらいは正しかった。 奇妙な粒子 「おかしいな電気量が保存しなくなる」  西島はこうつぶやいて,もう一度考え直したがやっぱり同じことであった。彼は新粒子のアイソスピンを考えていた。アイソスピンと電気量には簡単な関係がある。その関係を使えば,偶奇法則を書き改め,カスケード粒子に対する困難もなくなるかも知れない。 「こうしたらどうだろう。三本足型とV字型とを別々に考えてみては」  中野が助け舟を出した。彼もアイソスピンについて,いろいろ努力していた矢先である。国際理論物理学会が終わっても,O市立大学の研究室では熱心な討論が続けられていた。  とうとう中野・西島は,一九五三1953年(昭和二八28年)新粒子を含めた素粒子のすべての現象の特徴を支配する法則をつくりあげた。それは,核子とV字型新粒子とを1とし,その他の素粒子は0とする数の法則と,V字型新粒子と三本足型新粒子とをそれぞれマイナス1とプラス1とし,核子とパイ中間子とを0とする別の数の法則からできている。最初の数は素粒子の現象の前後でいつも一定に保たれる。つまり,核子は反応をおこして同じものになるか,V字型新粒子になるか以外には変わらない。第二2の数が発生と崩壊とを区別している。発生ではこの数が一定に保たれ,崩壊ではそれが変わることになる。つまり,パイスの偶数・奇数と同じ役目を果たしている。同じ年,アメリカではゲルマンが同様な結論に達した。  世界の人々は,まだこの新しい法則を認めようとしなかった。例のカスケード粒子が新粒子に崩壊する事実を,この法則はまだ説明していないと考えたからである。確かに,三人が用いた第二2の数はカスケード粒子の崩壊でも一定に保たれ,この崩壊と新粒子の発生とを区別していないように見える。これでは,対発生理論や偶奇数理論と変わりないではないか。  二2年後……。西島はその答えをさぐりあてた。答えは見つけたあとではコロンブスの卵に近いものであった。前に考えた第一の数としてカスケード粒子にも同じように1をわりふる。新発見は,この粒子に第二2の数としてマイナス2を与えたところにあった。第二2の数をカスケード粒子に対しマイナス2とすることに,なかなか気づかなかったのである。単純に偶数・奇数では解決できない点で,数をわりふる御利益が出た。盲点となったのは,カスケード粒子が普通の素粒子からやはり対発生すると考えたことで,そのために他の新粒子と区別しようとしなかったためであった。カスケード粒子は別の新粒子を核子に衝突させたとき,はじめて対発生する。カスケード粒子が,宇宙線中でなく,新粒子がたくさん発生する加速器によって発見されたのには十分理由があった。宇宙線では新粒子をつくるのがせいぜいだ。加速器ならば,新粒子がたくさん集まってつくられるので,新粒子で新粒子が生まれることも起こるからである。  中野,西島,ゲルマンが考えた第一の数は“重粒子の数”,第二2の数は“奇妙さ”とよばれるようになった。そして,三人のアイデアは,“素粒子の電気量は,そのアイソスピンの成分値に,重粒子数と奇妙さの和の半分を加えて得られる”という法則にまとめられた。どんな現象でも重粒子数の総和は一定に保たれ,奇妙さの総和は発生現象では変わらず,崩壊現象では大きさが1だけ変わる。  新粒子はほぼ出そろった。カスケード粒子はグザイ,V字型新粒子はシグマとラムダ,そして三本足型新粒子はケイ中間子とよばれるようになった。グザイ,シグマ,ラムダは核子と同じように重粒子数+1をもっている。しかしこれら新粒子は,核子やパイ中間子と違って,いずれも奇妙さをもち,その奇妙さはグザイ-2,シグマ・ラムダ-1,ケイ中間子+1である。  中野・西島・ゲルマンの法則を,見つかっている新粒子とならべて眺めると,未知の素粒子が登場する。問題になったグザイ粒子は負の電気量をもつから,アイソスピンをもっとも小さくとればで,その成分値はマイナスである。すると,アイソスピンの成分値がプラスのグザイ粒子がある筈で,それは中性のグザイ粒子になるに違いない。一九五九1959年(昭和三四34年),アルバレ・チームは陽子加速器ベバトロンを使って,はじめて中性グザイ粒子の存在をつきとめた。公式はもはや全く疑う余地のないものとなった。  最初招かれざる客にとまどった物理学者達は,十10年かかって,ようやく新粒子を接待するマナーを身につけたのである。新種の素粒子の知識はこうしてひとつの階段をのぼった。 十10ドルの賭け  二人の高名な学者が十10ドルの賭けをする破目になった。彼らは一九五五1955年(昭和三十30年)頃のある日たまたまニューヨークからプリンストンへの汽車に乗りあわせた。雑談もいつの間にか専門の話,とくに彼らがいま最も関心をもっている問題に移っていた。 「新粒子の問題も焦点がはっきりしてきたような気がするね。中野・西島・ゲルマンの法則もまだ問題はあるが,大体正しい点をつかんでいるだろう」 「そうだろうね。しかしカスケード粒子の問題もあるし,タウとシータとのことが気がかりだ」 「なるほど,“タウとシータの謎”か,あれは面白い。ところで君はそれについてどう思うね」  新粒子の現象のなかに奇妙な謎が残っていた。新粒子を発見した宇宙線研究者たちは忠実に乾板の飛跡を分類して,それらの崩壊する様子から新粒子に名をつけた。つまり,人間ならば戒名である。V字型には一1番から四4番くらいまでの番号をつけ,三本足型と似たものにはタウ,タウダッシュ,シータ,カッパ,ケイミュー,ケイベータと六6種類の名を与えた。タウとシータとを例にとると,タウは三3個のパイ中間子に崩壊している三本足型の飛跡をもつ新粒子であるが,シータは二2個のパイ中間子に崩壊して二本足の飛跡をもっているというように,その崩壊する飛跡が互いに違っている。そのうえ,発生してから崩壊するまでの寿命も,そして質量も違っているように見える。つまり,名前の数ほど種類の違う新粒子がたくさんあるらしい……。  ところが観測例がふえ分析が進んでくると,核子より軽い六6種類の新粒子は,それらの寿命も質量もだんだんとお互いに近づいて,しまいにはほとんど差がなくなってしまった。 「質量と寿命とが全く同じ素粒子が六6種類もあるというのはどうしたことだ。一体,自然界にこのような無駄があるだろうか」  この疑問を抱いた人々は,一1種類の新粒子が六6通りの違った崩壊をしているという説を漠然と信じはじめた。その時点で一1種類の新粒子説を信じた人は,次に起こった大きな問題へのスタート・ラインに並んでいた。だが,彼らの多くが本気になって一1種類説に踏み切れないような事情がそこにある。 「御承知のことだが,問題をはっきりするためにくり返すよ。素粒子を記述する関数は,相対性理論のローレンツ変換でどう変わるかで区別される。それ以外に,鏡にうつした場合,つまり空間の左右のいれかえ(反転)でどうなるか,フィルムを逆にまわした場合,つまり時間の逆転や,粒子と反粒子とのいれかえの結果などからいろいろと分類されている。空間の左右のいれかえに対する性質はパリティとよばれ,左右のいれかえで形の変わらぬもの,つまり空間の右と左とに区別をつけないものをパリティがプラス,そうでないものをマイナスという。ともかく,原子核変換や素粒子の現象で欠かせない量と考えられていた。素粒子現象では反応の前後におけるパリティの積が変わらないと考えられるから,なおさらである。  ところで,パイ中間子はマイナスのパリティをもっている。タウは三3個のパイ中間子に崩壊するのでマイナスのパリティをもち,シータは二2個のパイ中間子に崩壊するのでプラスのパリティをもつ。そのため,パリティを盾にとれば,たとえ同じ質量と寿命をもつとはいえタウとシータが同一種類の素粒子といいきれない。タウとシータは同じ素粒子か,そうでないのかは謎だというのが問題なわけだ。しかし,僕はタウとシータとはやはり違う素粒子だと思うよ」 「しかし,パリティを除けばあとは質量も寿命も電気量もそれにスピンも全く似ている。パリティはそれほど自然を支配する量なのか,僕は疑問に思うね」 「そうではない。パリティがなければ空間の左右対称性が保証できなくなる。確かに自然には非対称な部分がある。植物のつるの巻きかた,巨大分子のヘリックス構造,DNADNAの二重螺旋(らせん)などは,自然界にそれと対称なものが存在しない。しかし,これはあくまで二次的なもので,根本にさかのぼれば右も左も同等,つまり左右対称がなり立つと考えるのは当然と思うが」 「そのことは僕も一概に否定しない。しかし,そうだからといって現実の素粒子の世界をパリティがきびしく支配しているとはいえない。どうだろう。この問題も早晩きりがつくだろうから,タウとシータが同じものかどうか賭けようじゃないか」 「面白いね。僕が“違う素粒子だ”というほう,君は“同じ素粒子だ”というほうだね」  そういうと二人は顔を見あわせてニヤリとした。 「しめた。額はともかく相手のあやまる顔が見れるぞ」 鏡のなか  タウとシータとの謎は,それに賭けた学者がいるという噂とともに,世界中の注目を集めていた。その割にはこの謎に本気でとり組む人は少なかった。噂を聞いた学生が質問した。 「先生はタウとシータとが同じか違うか,どちらに賭けますか」 「そんな賭けはくだらない。それよりも,“タウとシータがなぜ同じに見えるのか”考えるほうが大切だ」  ある物理学者はこう答えた。だが,充分能力があるこの物理学者でも,ここまで考えながら問題にはなかなか手を下さなかった。彼の手から重大な玉がころがりおちたわけである。  この問題に真剣にとり組んでいた学者もあった。中国生まれでアメリカにいた李(リー)と楊(ヤン)という理論物理学者たちである。彼らは,タウとシータとを別種の素粒子と考えて質量と寿命とが同じになる理由をさがしつづけた。 「タウやシータの質量がぴったり一致するのは単なる偶然だと思われる。そこでかりに質量にわずかの違いがあるとして,重い粒子は軽い粒子へ光を放出して変わるとする。なぜならそうすれば,重い粒子がパイ中間子へ崩壊する時間と軽い粒子がパイ中間子に崩壊する時間がほとんど等しくなるだろう」  こういう説を出した。ところが,この場合,軽い粒子の崩壊にはその前提となる光の放出が見られる筈だが,実際には見つからない。どうもこの考えでは答えにならないようだ。 「タウとシータは,互いに移り変わる結果質量も寿命も似てしまうのだろうか。あるいは,自然の根本法則がパリティの異なる双児を生むようにできているのに,われわれが気づいていないのだろうか」  李と楊は考えつくいろいろな可能性をすべて当たってみた。だが,どれも満足するような答えが得られない……。悩みぬいた彼らは,とうとう思い切った推論をもちこんだ。 「タウとシータの謎がとけないのは,その謎のもとになっているパリティの考えが問題ではないだろうか。崩壊のような現象ではパリティが意味をもたないのではないか」  彼らはゴールに近づいていた。 「パリティはこれまでの理論に大きな役割を果たしてきたことは確かだが,それは核力とか素粒子の発生とかの比較的強い相互作用が働いている場合の話である。崩壊のような非常に弱い相互作用の働いている場合,たとえパリティが通用しなくなってもそれほど困ることはないだろう。こういう小さな破れという考えにはまだ誰も気づいていない。そう考えるならば,タウとシータとは同一種類の素粒子としても,弱い相互作用でパイ中間子三3個にも二2個にも崩壊できることになる」 「しかし,崩壊ではパリティが役立たないといったとしても,多分誰も信用しないだろう。何かこの考えを明確に示す材料は別にないものだろうか」 「ベータ線の現象はどうだろう。これも,新粒子の崩壊とよく似た現象だから,このパリティの破れという考えが自然に共通した法則であれば,同じ弱い相互作用が支配するベータ線の現象にもあてはまらなければならない」 「なるほど,原子核はそのなかの中性子が陽子に変わる際,電子と中性微子との対を放出する。パリティが意味を失っていれば,空間の左右に違いがでる。たとえば,原子核のスピンの方向を基準として,その方向に放出される電子と,逆方向に放出される電子とに,統計的な数の差がでるだろう。それはしらべられるかも知れない」  二2人はタウとシータの謎から,ベータ線の現象へと話をうつした。新粒子の現象はまだよくわかっていない。しかしベータ線の現象についてはずっと以前から研究されていて何でもわかっていると思われている。彼らはこれに挑戦した。まだ,本当にしらべつくされていない盲点がある……。  李と楊との説を聞いて,コロンビア大学のベータ線の権威,中国人物理学者呉(ウー)女史は,自分がそれをやらなければならないと思った。二人が要求している実験はかなり厄介だ。ベータ線を出す原子核としてはコバルト60が最適だが,元素のなかに無数にある原子核のスピンの方向を全部そろえておかないと,彼らの説をしらべられない。ひとつの原子核についてスピンの方向と逆の方向で違いがでても,いろいろなスピンの向きをもつ原子核の集団では効果が消しあうからだ。すべての原子核のスピンをそろえる必要がある。これが大変厄介であるためいままで,誰も彼らの説のようなことに気づかなかったのである。極低温の技術が動員された。磁場をかけ,コバルト原子核のスピンの方向をそろえ極低温にもっていって磁場をはずす。外から熱を与えないかぎり,原子核はスピンの方向をかえるエネルギーがないため,そろったままでいる。しかし,多少とも温度があがると,原子核はエネルギーをとり,スピンを勝手な向きにしてしまう。だから実際にスピンの方向がそろっているのはわずかな時間で,その間が勝負である。呉女史は二人の要求に見事に応え,翌年彼らの説の正しさを実証したのである。  李と楊との予想通り,コバルト原子核のスピンの方向と反対向きにでる電子の数は圧倒的に多かった。タウとシータの謎は,この援護射撃によって解消した。ベータ線現象で,空間の左右が対称でないという重大な発見から考えると,新粒子の崩壊でもパリティが破れると見てよい。タウとシータとは同一の素粒子であった。その他いろいろの名の四4種の新粒子も統一されたのはいうまでもない。こうして一1種類の素粒子,ケイ中間子が確定したのである。賭け金はどうなったか……結果は知られていない。 つきない謎  一九六四1964年(昭和三九39年)になると,新粒子という名を当てるにはもう古顔になりすぎたケイ中間子であったが,これをAGSAGS陽子加速器で追っていたチームが,またまた奇妙な事実にぶつかった。彼らはケイ中間子の崩壊の現象をしらべていた。 「われわれに何が起こったかを語るまえに,話を李と楊の発見までもどそう。二人はパリティの破れをいい当てた。しかしこの破れには広い意味での制限がある。パリティは素粒子を記述する場の関数が空間の左右をいれかえてどうなるかを示す量である。それと似た問いは時間の前後をいれかえてどうなるか,粒子と反粒子の電気量の符号をいれかえてどうなるか,などである。ところが,ひとつの粒子について,空間の左右,時間の前後,粒子・反粒子の関係を全部いれかえれば,基準になる座標系を全部入れかえた結果になって,対象については何も変わらないことになる。大体基準になる座標系は最初からどうとらなければならないという約束はないからだ。これはパウリとリューダースが発見した数学の定理である。この定理を用いると,空間の対称性,時間の対称性,粒子・反粒子の対称性は互いに他のものを制約している。全部の対称性が成立していれば問題はないが,どれかの対称性が破れると,他の二つのうちのひとつがそれを補うように破れることになる。だからどれか一つの対称性が破れている場合でも,もう一つの破れている対称性を同時に考えるならば,この二つを組にした対称性は破れない。  さて,李と楊との説の通り,弱い相互作用の関係する現象でパリティが意味がなくなるとなると,空間の左右対称性が破れているので,それを補う意味でいまひとつの対称性が破れる筈である。しらべてみると,粒子・反粒子の対称性が破れている。負の電気をもつミュー中間子は電子と二2種類の中性微子に崩壊している。その電子のスピンの向きは,飛び出す方向と逆になっている。ところが,正の電気をもつミュー中間子から出てくる陽電子はスピンの向きが飛び出す方向と一致していた。パリティだけが破れているのであれば,陽電子も電子と同じように振舞う筈だが,そうでないのは粒子・反粒子の対称性も破れている証拠である。そのうえ,時間の対称性が破れるという事実は発見できなかった。こうして,崩壊現象に関するタウとシータの謎が投じた波紋は,おさまったかに見えていたのである。  では中性のケイ中間子にもこの考えをあてはめるとどうなるか。この粒子には,粒子的なものと反粒子的なものと二2種類あって,それぞれは奇妙さが反対のため別々の方法で発生する。ところが,いざ崩壊する段になると,それら二2種類の粒子は個性を失ってしまう。そのかわり,二2種類の粒子が組みあわさって新しい状態となり,それがあたかも一1つの粒子であるかのように崩壊するのである。これは奇妙なようだが,ミクロの粒子が二2重性をもち,波として重ねあわせができるためである。空間の左右対称性と粒子・反粒子の対称性を同時に考えたものが破れないように波が組みあわさり,それが崩壊する。これらのケイ中間子の崩壊の組を,長寿のケイ中間子と短命のケイ中間子とよんでいる。寿命が非常に違うからである。二2種のうち,短命のケイ中間子はパリティを破り,粒子・反粒子対称性を破って崩壊し,長寿のケイ中間子は双方とも保存しながら崩壊する。崩壊では両方の対称性を組みあわせたものだけが意味があるとすれば,短命のケイ中間子は,正・負二2個のパイ中間子にこわれるが,長寿のケイ中間子はこれら二2つのパイ中間子には絶対にこわれない。長寿のケイ中間子は正・負・中性三3個のパイ中間子に崩壊するのである。これも,破れの補いあう一つの証拠となる。われわれの実験チームがしらべようとしたのは,この事実であった。  実験では,短命のケイ中間子が死に絶えるように長い時間をかけた。われわれは安心して長寿のケイ中間子だけを相手にできる筈であった」  だが,その測定結果を見た人々は驚いた。長寿のケイ中間子の大部分は三3個のパイ中間子にこわれている。しかしそのなかに,長寿のケイ中間子がこわれない筈の二2個のパイ中間子に崩壊している例が,少数ながらまじっていたのである。  どうしてそんなことがおこったのか。その答えを与えようとしていろいろな説が登場した。だが,まだどれも満足な答えとは言えない。新粒子にも謎はつきない……。 6 素粒子模型 ------------------------------------------------------------------------------- 次々とあらわれてくる新種の素粒子を処理するために,坂田模型は素粒子を基本粒子とその複合物にわけた。基本粒子をたどっていくと,軽粒子が問題になる。複合物を検討すると基本粒子はコークにと修正される。そして,そのさきは……。 青春の感激  一九五五1955年(昭和三十30年),坂田は雑用から解放されて,京都にある湯川記念館で休養を楽しんでいた。湯川のノーベル物理学賞受賞を記念してK大学に建てられたこの研究所は,二2つの機能を果たしている。ある期間は,全国から集まる猛者連の激しい討論の場となり,別の期間は,大学の運営や会議などの雑用にしばられやむなく研究を中断している研究者に,研究を再開する機会を与える場所ともなる。その頃,新粒子はほぼ全貌をあらわし,“タウとシータの謎”が論じられ,“パリティの破れ”へとその道をたどっていた。坂田はじっと新粒子問題のなりゆきを見守っている。  彼は,K大学の三年生であったとき,ハイゼンベルクの論文“原子核の構造について”を読んで大きな感激を覚えた。いままで全く霧に閉ざされていた原子核の問題が,中性子の導入によってどのように明確な答えが得られるようになるかを,この論文ははっきりと教えている。中性子といった実体を考えるかどうかで,これほど問題へのせまりかたに差ができるとは思ってもみなかったことである。それ以来,彼はこの感激と哲学とをもって研究にとり組んできた。二中間子論を提唱したのも,凝集力中間子場論(7章参照)をつくったのも,その結果である。 「新粒子は非常に複雑に見える。しかし,それは見かけだけのことではないだろうか。今世紀のはじめ,原子は非常に複雑に見えた。だが,電子によって原子の複雑な現象は整理され,量子力学という新しい法則体系が生まれた。原子核現象の複雑さは,ハイゼンベルクが予想した通り,陽子と中性子とで構成される問題と,陽子や中性子の行動・性質についての問題とに分けられた。確かにあとの問題の解決は先の話となったが,それにもかかわらず原子核に関する非常に多くの現象が前の問題の一環として解かれ,また将来も考えられていくであろう」  新粒子の出現によって,予想された以上にたくさんの種類の素粒子があることがわかった。この状況は,二十20世紀はじめわれわれが原子につき当たった状況と似ている。自然を簡単なものから考えようとするねらいとは逆な現象があらわれているのである。何人かの人々は多くの素粒子をより種類の少ない素粒子から説明しようと努めた。ド・ブロイは光子を中性微子の対から作ろうとし,フェルミと楊とは“パイ中間子は素粒子か”という疑問を投げ,パイ中間子を,核子と反対核子との対からできている複合物と考えようとした。  もっと基本的な問いかけも行なわれている。湯川は非局所場(8章参照)という一種類の量によってすべての素粒子を一挙に扱ってしまうというねらいを三3年ほど前に発表した。ハイゼンベルクも,同じ年,非線型方程式にしたがう根源物質の場から,素粒子とその行動すべてを導こうとする試みにスタートしている。 「しかし,フェルミらの試みは個別的なねらいにすぎるし,湯川やハイゼンベルクのねらいは野心的であっても早急に結論が出せるものではない。昔,ハイゼンベルクが原子核に対して考えた二つの問題のわけかたは,いまの素粒子の状況にもあてはまる」  坂田は,非局所場やフェルミ・楊の理論の検討で埋まったノートを見ながら,こう思う。 「素粒子においても,現在問題に出来る部分と,将来考えるべき部分とがある筈だ。素粒子の段階でとり扱う法則は前者に関するもので,後者については素粒子よりもっと深い段階で考えねばならない。自然は段階的に姿を見せ,その段階が次々と奥深く続いているのだ」  この点で,一挙に最終の答えをねらおうとする湯川やハイゼンベルクとは違った哲学を,坂田はもっている。 基本粒子  同じ年の秋,坂田は学会ではじめて坂田模型を発表した。 「素粒子,とくに強い相互作用をしている重粒子や中間子の集団をすべて同じレベルの対象と考えるには,その種類が多すぎます。それは,これらの素粒子が中野・西島・ゲルマンの法則にしたがっていることから言えるものです。この法則では,“電気量”と“重粒子の数”と“奇妙さ”との三3つの量だけが重要になりますが,それらの量を代表する素粒子よりも,すでに見つかっている素粒子の種類のほうが多いわけです。つまり素粒子はその役割がダブっているのです。そういう事情から考えますと,役割の代表となる一部の“基本粒子”を除けば,他のすべての素粒子は,原子核と同じように,基本粒子からできる二次的な複合物と見なすこともできるわけであります。この考えを進めていけば,素粒子の問題についても,ハイゼンベルクが原子核にたてたプログラムと似て,基本粒子に関する問題と,基本粒子がつくる複合物に関する問題とに分けて考えられるかも知れません」  坂田は,基本粒子として陽子と中性子のほかにラムダを加えた。陽子は電気量,中性子は重粒子の数,ラムダは奇妙さの代表である。実際のところ,基本として考える素粒子は三3つの量を代表すれば何でもよかったのだが,ことさらに未知のものを導入する必要もなかったうえに,原子核のイメージが何よりも大切に思われたので,よく知られた三3つの素粒子がえらばれた。  陽子・中性子・ラムダの三3つの粒子は,いずれも重粒子集団に属し,スピンがで,質量もそれぞれ余り違っていない。この共通した性質を土台として,中性子とラムダとの違いを眺めようとして立てた坂田のプログラムは,この模型の発展を約束した。たとえば,これと前後して考えられたゴールドハーバーの模型は,陽子・中性子・ケイ中間子を基本としたが,坂田プランのようなはっきりした見通しに欠け,それ以上の進展を見せなかった。  しかし,坂田が学会で話したとき,ほとんどの出席者は彼のねらいを理解しなかった。 「この模型は中野・西島・ゲルマンの法則のいい直しではないか」 「それよりも,点状の素粒子に構造を考えることはナンセンスだ」  素粒子に大きさや構造を考えることに抵抗をもっている人は多い。素粒子の構造を考えに入れた理論をつくることが難しいうえに,たとえ,それで非常に手のこんだ理論がつくれたとしても,それによって経験のうえで得るところは少ないと考えるからである。しかし,だから点状の素粒子が最良の模型であるといえる理由はいささかもない。だが点状の模型にくらべ,大きさや構造をもつ模型をつくるには,未知の要素をいれるという危険をおかさなければならない。素粒子が原子核と似たような構造をもつと考えた坂田は冒険をしたことになる。  坂田模型では,パイ,ケイなどの中間子は,陽子・中性子・ラムダの基本粒子とそれらの反粒子との対で構成され,シグマ,グザイなどの重粒子は,そのうえにさらに基本的粒子を加えた複合物と考えられる。  原子核を考える場合に原子核の質量公式が重要であった。原子核と似た考えを進めるとすれば,素粒子の模型がもつ内容を検討するうえに複合物としての素粒子の質量公式が必要である。それは翌年松本がつくりあげた。その質量公式はかなり素朴であったにもかかわらず,ラムダの力と核子の力とにわずかの差を入れることによって,ほとんどの複合素粒子の質量を説明していた。この結果は坂田模型を主張する強い根拠となった。いろいろな素粒子の性質が,基本粒子の性質だけから導けるというのは魅力のあることに違いない。坂田を中心とするN大学のチームは,この模型の検討にとりかかり始めた。 違うもの似たもの 「陽子と中性子とは非常に似た粒子である。陽子がプラスの電気量をもち,中性子が中性である点を除くと,二2つは寸分違っていない。たとえば,二2つの素粒子の質量は一〇〇〇1000分の一1ほど違っているだけである。  ところが,ラムダはこれら核子とは大分違っているように見える。質量の違いもパイ中間子の質量の二2倍程度,つまり核子の質量よりも五5分の一1だけ重い。奇妙さがある点も似ていない。坂田模型の基本粒子は混成部隊のようである。原子核は陽子と中性子という似たもの同志の集まりだが,坂田模型で素粒子を原子核のように考える場合,ラムダを加えた混成部隊という特別な事情があらわれる筈である」  坂田は,ラムダと核子の似ている点とラムダと核子の違っている点とをうまく使いわけて先へ進もうとした。しかし,現実に非常な違いがあるラムダと核子とでは,どうしても違いばかりが目についてしまう。実際,坂田チームの攻撃はこの点に集中しているように見えた。  こんな空気の中で,小川は全く反対の考えをもった。坂田模型が登場してから二2年の歳月が流れていた。坂田チームが坂田模型の分析を続けているのを眺めていた彼は,どうもラムダが核子と違っている点よりも,むしろ似ている点のほうが多いように思えたのである。 「核力や素粒子の発生・反応などの強い相互作用を,複合物をつくっている基本粒子の行動にもどして見る。この場合,複合物としての素粒子は互いに移りかわっているのだが,それらを作っている陽子・中性子・ラムダ粒子はどれも変わりあうことがない。つまり,建築物が変わっても,材料そのものはまえにどこかで使われていた……ということと似ている。そして素粒子の崩壊の現象ではじめて,中性子が陽子になるというふうに基本粒子は互いに変わりあう。しかし,その場合にも,素粒子が電子と中性微子との対や,ミュー中間子と別の中性微子との対に崩壊するようすを見ると,核子とラムダとの行動にほとんど差がない」 「核子とラムダに違いはあるとしても,素粒子に関する現象の大部分では両方が似ていると考えたほうが,現象の特徴をよくとらえることができるのではないだろうか」  小川は,基本粒子がすべて似ているという理論をつくろうと思った。 「陽子と中性子とが似ていることをあらわすには,架空な空間(アイソ空間)を設け,そこでアイソスピンを考え,陽子に右まわり,中性子に左まわりの回転をふり当てた。また同じようにして,その他の素粒子にもアイソスピンが定義された。アイソ空間では陽子と中性子とを,またその他の素粒子でも電気量の違ったものどうしで入れかえをしても理論は変わらない。この結果は,原子核や中間子の現象によって確かめられてきた。これを坂田模型で考えると,基本粒子の陽子と中性子だけをいれかえると,複合物の素粒子もいれかわり,いろいろな素粒子のアイソ空間での性質が,基本粒子の入れかえということから簡単に説明できる。つまり,陽子と中性子とのいれかえで理論が変わらないようにしておきさえすれば,すべての素粒子の現象について確かめられた結果が自動的に出てくる。これは坂田模型がもっているすばらしい利点である」  彼はこの例にならって陽子とラムダ,中性子とラムダのいれかえで変わらないような理論をつくろうとした。しかし,三3種類の基本粒子のうち二2つのいれかえだけに注目する理由はない。二2つずつをいれかえていけば,結局三3種とも自由にいれかえうるような形式ができる筈である。だが,そういう数学はいままで例がない。彼は大貫と池田とに相談をもちかけた。  ヨーロッパでもクラインや,セルンに滞在中の山口も同じような考えを進めていた。基本粒子をいれかえていけば,それらから構成されているパイ中間子やケイ中間子の間に関係がついてくる。一1種類の素粒子の現象がわかれば,別の種類の素粒子の現象が予想できるのである。わかっている素粒子の性質や行動から,未知の素粒子の存在や行動が予言できる。これは素晴らしいアイデアであったから,世界の誰かがそこにたどりつくのは時間の問題であった。幸運にも小川たちはその先頭を走っていた。 “I(池田)O(小川)O(大貫)の対称性”とよばれる理論が完成したのは一九五九1959年(昭和三四34年)である。この理論では,三3次元ユニタリー群とよばれる物理学ではじめて登場した代数が使われていた。代数に得意でない素粒子物理学者にとって,それはいかにも難しく見えたので,最初は評判のよいものではなかった。 「ラムダと核子とは大変違っている。そのうえ,わずか一〇10種類くらいの素粒子を相手にするくらいなら,こんな牛刀をふるわなくてもよい筈だ」 「対称性を利用すると,パイ中間子とケイ中間子のほかに中性の中間子が二2種類登場する。果たして,そんな素粒子があるのかどうか。もしあるならば,なぜ見つからないのだろう」  だが話は急いではいけない。パイ中間子と陽子との衝突を観測すると,特別のエネルギーで入射したパイ中間子だけが桁違いに大きな割合で散乱される。この事実は一九五〇1950年頃から報告されていた。その場合,パイ中間子と陽子とが結びついてある時間のあいだ新しい素粒子状態になるとすると,それは特定の重さをもつ筈である。それに相当したエネルギーをもって衝突してくる中間子は状態をつくるのに一番都合のよい条件にあるから,共鳴をおこすのであろう。この結果が測定にあらわれるのだと推定される。そのような新しい型の素粒子ができたとしても,それはたちまちに崩壊するが,しかしそれも素粒子の仲間に加えないわけにいかない。  坂田模型が登場した頃,共鳴粒子は限られた一部の現象にだけ見られるものであった。だが,一九六〇1960年を境にして,PSPSとAGSAGSとの二大加速器が活動を始めると,この種の共鳴状態とよばれる素粒子が次々と発見されるようになった。この素粒子の洪水につき当たった人々は,一方では素粒子の整理を望み,他方では次に何が見つかるかと期待し坂田模型を注目し始めた。  この状況のなかで,IOO対称性にもとづく素粒子の質量公式が,沢田・米沢により作られた。それは発見された共鳴状態の質量をよく説明し,なお新しい素粒子の発見を予期するものであった。IOO対称性が中間子にもうけた二2つの空席は,一九六一1961年のエータ中間子,一九六四1964年のカイ中間子の発見によってうめられた。  池田・小川・大貫の三人は,素粒子の分類に代数を用いるという試みの流行を生んだ。 電子のネタ 「電子の質量はどうして生まれるのだろう」 「僕は,昔ローレンツが考えたように,電磁場のエネルギーによるものだと思うね」 「それは昔の話だ。現在の理論では,たとえ答えが無限大になることを避けたとしても,電子の質量をはじめにゼロとする限り,電磁場のエネルギーだけで質量が得られるしくみになっていない。素粒子の理論のなかに長さの次元をもつ定数が入っていないからだ」 「そうだとすれば,考えられるのは崩壊に関係する弱い相互作用によって生ずる質量だが。しかしそれは小さすぎて問題になりそうもない……」 「こういう説はどうだろう。電子も中性微子と同じように質量がゼロとする。しかし弱い相互作用の結果,それはまず,わずかながら質量のネタを仕入れる。ネタさえあれば,あとは電磁場がエネルギーを補充して一人前の電子が仕上がる」  こんなやりとりをしていた三人の物理学者があった。武谷と片山,もう一人はブラジルのある物理学者……一九五八1958年(昭和三三33年)のサンパウロのこころよい夜のことである。武谷と片山は,電子,中性微子,ミュー中間子などの“軽粒子”を調べようとしていた。 「坂田模型は成功の道をたどっている。おそらく重粒子と中間子についての整理は近いうちにできてしまうに違いない」 「しかし,軽粒子については,まだ誰も手をつけていない。光や軽粒子まで含めなければ,素粒子の統一的な模型は完成したといえない」  二人はまず最も古い問題,“電子の質量の起原”に挑もうとした。 「ともかく,現在の正統理論を信じてしまうと,この問題は全然解けないことがわかる。質量の答えは無限大になるし,また適当に有限であるように細工をしてもゼロの質量から出発するとゼロ以外の答えが出ない」 「しかし正統理論にも穴がある筈で,それを探すことが先決問題だ。電子とミュー中間子とは,質量が非常に違っているがそれ以外の行動や性質は似ている。したがって電子だけでなく,電子とミュー中間子とを並行して考えてみたらどうだろう」  ここで二人は再び問題をたて直す。電子やミュー中間子の質量の原因はなにか。電子やミュー中間子の行動が似ているのに,それらの質量に非常に開きがあるのはなぜか。 「電子もミュー中間子も,中性微子と違って電気量をもっている。このことと,電子やミュー中間子が現実に質量がゼロでないこととは,無関係ではなさそうだ。もしかすると質量のほとんどの部分が電磁場のエネルギーに原因しているに違いない。しかし,全部の質量がそうだというわけにはいかない。ゼロの質量の電子では電磁場から得られるエネルギーもゼロだからだ。したがって電磁場のエネルギーを加えて電子の質量を効果的にかせぐにはネタがいる」  こうして彼らは,弱い相互作用によってネタを仕入れようとしたのである。わずかな芯のような質量がありさえすれば十分だ。やがて彼らは,質量の仕こみの問題も,電子やミュー中間子が電気量をもつしくみの問題に集めて考えればよいと思うようになった。このほうが融通がきく。彼らは電子とミュー中間子に電気量を与えるため“イプシロン荷電”という奇妙な機構をもちこんだ。  中性微子は,結果として電気量を与えるある種の量,つまりイプシロン荷電を帯びる可能性がある。その帯びかたには二通りのものが考えられ,その一方によって中性微子が電子に,もう一方によって中性微子がミュー中間子になる。一九五九1959年(昭和三四34年),武谷・片山が提唱した軽粒子の模型の筋道である。 「イプシロン荷電とよばれる謎めいた物質を持ちこむのは,多分正統的な物理学者からは反撃か無視をうけることは目に見えている」 「それでは,彼らにどのような解答があるのか。何もないではないか。われわれは軽粒子から何かをつかみ出さなければならないのだ」 「これは“サンパウロ模型”と名づけよう」  二2人はそう話しあって日本へ帰った。そこにも,彼らの考えと呼応する新しい模型が生まれつつあった。 キエフ・名古屋・サンパウロ  坂田模型が軌道にのりはじめた頃,坂田チームはすでに次の課題にとり組んでいた。重粒子や中間子についての現象は,陽子・中性子・ラムダの基本粒子にもどして考えることができる。ところが,素粒子の崩壊の現象まで考えを進めると,基本粒子だけで話をすますことはできない。軽粒子があらわれてくるからである。軽粒子は基本粒子と違ったものなのか,あるいは関係があるのだろうか。そこに何かあるに違いないと,坂田は前々から考えていた。ところがこの問題に対するひとつのヒントが,一九五九1959年(昭和三四34年)夏キエフで開かれた国際会議であたえられた。大久保,ガンバ,マルシャックの三人が,崩壊現象において陽子・中性子・ラムダの果たす役割と中性微子・電子・ミュー中間子の演ずる役割が全く似ていることを指摘したのである。キエフ対称性と名づけられたその対称性は多分にありそうなことである。重粒子と中間子との集団を整理していけば,陽子・中性子・ラムダの三3種類になり,軽粒子も(まだ中性微子が二2種あるとは思われていなかったので)一1種類の中性微子・電子・ミュー中間子の三3種類になる。しかも,これら三3つの素粒子の質量の違いかたも,陽子と中性子とが大体同じでラムダが少し重いように,中性微子と電子とが大体同じでミュー中間子がやや重いという具合に似た関係にある。したがって,それらの行動が似てくることも考えられよう。 「軽粒子に“なにかの物質”をつけたら,基本粒子になりませんかね」  坂田はチームの面々を見まわしていった。牧が答える。 「なるほど,そうかも知れません。陽子・中性子・ラムダと中性微子・電子・ミュー中間子と質量の小さいほうから並べて見ると,電気量も単位量だけずらしてゆけばよいわけですか」  大貫がすかさずあとを続ける。二人は坂田の両腕である。 「そうすると,軽粒子につける物質はプラスの電気量をもっていて,しかも軽粒子も基本粒子もスピンはだから,スピンが0か1かの粒子ということになりますね」  坂田は首をふった。 「いや,私はなにかの物質といっただけですよ。素粒子でないかも知れません」  この“ビー物質”とよばれるようになった物質を簡単に素粒子と割り切ってしまってはまずいことも確かであった。ビー物質は軽粒子と結びついて基本粒子になる。その基本粒子は強い相互作用では決して変わることがないから,よほど固く軽粒子をつつんでいなければならない。にもかかわらず,弱い相互作用では中身の軽粒子は変わらなければならないから,ビー物質の固さにも限度がある。一定の電気量をもつことが必要であるが,軽粒子につくのは電気素量だけに限らなくては困る。この点ではビー物質も素粒子のようである。しかし,素粒子なら勝手にとび出してもよいが,ビー物質だけが単独であらわれてもいけない。こういう性質をわりだしていくには,最初から素粒子ときめてかからないほうがよい。それが,坂田の立てた攻めかたであった。  坂田チームは,ビー物質と軽粒子とのくっつきかたの問題に直接当たることを避け,ビー物質の性質を経験から追うことにした。軽粒子は弱い相互作用だけをするから,弱い相互作用の原因は軽粒子にある。基本粒子は強い相互作用をするうえに,それぞれ個性をもっている。これらの点を考えに入れると,次のようなことが結論できる。 「強い相互作用の生じる原因はビー物質にあり,これは促進剤に似ている。この場合,ビー物質にとりつかれた軽粒子は,身動きできないでそれぞれ個性をあらわさない。ところが,軽粒子が互いに変化しあうと,ビー物質のあるなしによらず相互作用は極端に弱くなる。これが崩壊の現象をあらわしている」  こうして未知の物質を土台とする軽粒子を含めた“名古屋模型”が,一九五九1959年(昭和三四34年)生まれることとなった。  新聞は名古屋模型を,坂田模型以上に世界に向かって報道した。しかし,ビー物質が未知であるという理由で,多くの物理学者はこれも無視した。実際,サンパウロ模型や名古屋模型に関する論文を海外の雑誌は掲載しなかった。それはきまって,丁重な返事と共に返却された。 「この論文は大変重要なものかも知れません。だが,残念ながら,われわれはそれを充分評価できませんでした。日本の雑誌に十分スペースをさいてもらって詳しくのせるのがよいのではないでしょうか」  名古屋模型とサンパウロ模型との合流は,武谷がおこなうこととなった。これを“中性微子模型”という。強い相互作用がビー物質の促進剤でおこるという考えからすれば,弱い相互作用はイプシロン荷電ののりかえと見るほうが,単に軽粒子が変わると考えるよりも,より本質に近い。こうして,素粒子の模型はビー物質やイプシロン荷電という未知の要素を含みながらも,最も単純な素粒子,すなわち中性微子へと進んでいくこととなった。“ミュンヘン・札幌・ミルウォーキー”というビールの広告が流行した。そのとき,物理学者の一部は,“キエフ・名古屋・サンパウロ”によって素粒子の統一をねらっていた。 物理屋さんにスリー・コークを  バーテンダーがつぶやく。 「マスターのホークさんにスリー・コークを」  ゲルマンは,コークとは,ジェイムス・ジョイスの小説に登場する主人公が液体の量(コート)を聞き(ハーク=harkして)夢のなかで合成した言葉であると想像している。だが,現実の物理学者である彼は,三3つのコークは重粒子をつくるものと考えた。  坂田模型から出発したIOOの対称性が日本で盛んになった頃,ゲルマンとネーマンは素粒子の別の対称性を明らかにしようとしていた。それは,陽子・中性子・ラムダ・シグマ(プラス・ゼロ・マイナス)・グザイ(ゼロ・マイナス)の八8種類の素粒子を互いにいれかえる時変わらないような形式を論じたものである。  一九六一1961年(昭和三六36年)にこれが八道説として発表された時,坂田模型から生まれた対称性よりもすぐれているとは見えなかった。だが実験は幸運にもゲルマン説に有利に展開しはじめたのである。それは,シグマとグザイとのスピンがであることが明瞭になってきたからだ。IOOの対称性では,シグマとグザイとはパイ中間子と核子との散乱に登場する共鳴状態と同じ性質をもつ筈で,共鳴状態のスピンがであることから,シグマとグザイとのスピンもと予想されていた。ゲルマン・ネーマンの理論は,すでにシグマもグザイもスピンと見当がついた時期に始まるという有利な状況にあった。スピンの予想が現実と違うのでは,理論は意味がなくなる。これに気づいた時,坂田模型の研究者たちは再び原点にひき返さねばならなかったのだが,不幸にも誰もその機会をとらえられなかった。その間に八道説は進んでいった。大久保はこれにもとづく質量公式をつくり,見事に新種の素粒子オメガの存在をいいあてた。 「もし,実験的にIOOの対称性よりもゲルマン・ネーマンの対称性がよいということになれば,もう一度八8種類の重粒子から出発して,その背後に別の基本粒子をおくというやりかたをとるのが私の模型のやりかたであった」  坂田は一九六三1963年(昭和三八38年)にこう自分の考えをのべた。坂田の主張を実現したのは,皮肉にもゲルマンだった。八道説にある対称性は内容のうえでは,小川が最初のヒントをつかんだ方法と全く同じである。だから,考えの根本には三3つの基本的な物質が存在している。ところがゲルマンが到達することになった三3種の基本粒子は,電気量や重粒子の数が半端になる非現実的なものである。池田・小川・大貫は,出発点でこの理由から問題なくその可能性をすてた。数学の言葉では,池田・小川・大貫は三3次元ユニタリー群を,ゲルマンは《三3次元単模ユニタリー群》を考えたことになる。実はあとの数学は原子核物理ですでに使われていたので,楽な道だった。ちょっとした物理の違いが,両者の開きとなった。  ゲルマンは,現実の陽子・中性子・ラムダと少し違う根源物質に似た三3種の原陽子・原中性子・原ラムダを“コーク”と名づけた。一九六四1964年(昭和三九39年),同じものがゲルマンによりコークとして発表され,ツワィクによってエースと名づけられて提唱された。 「コークは現実に存在する粒子かどうか」  それらは電気素量のプラス,マイナス,マイナスといった半端な電気量をもっている。だから,現実に存在するかどうかわからない。三3個のコークが集まると,電気量は素量の整数倍(ゼロを含めて)になり,はじめて現実の八8種類の重粒子が登場する。コークが一1個や二2個でつくられる素粒子は半端な電気量をもつが,それらは見つかっていない。 「コークは,自然界に単独に存在するに違いない」  そう信じる物理学者は,いままで発見されていないことから,コークの重量は非常に重いと見て高いエネルギー現象を追い,宇宙線や巨大加速器のなかで最初の発見者の栄誉をかちとろうとしている。今まで,何遍かコーク発見のニュースが流れた。だが,そのニュースはいつも消えてしまった。 「コークは存在していない。それらは見かけだけの素粒子にすぎない」  コークの存在を信じない物理学者も,しかしそれらの役割は否定できない。彼らはコークをもっと別の素粒子らしからぬものにおきかえようと試みている。いずれの直観が正しいか。今のところ判定できない。三3種類のコークを三3組考えて,半端な電気量をなくそうという説もある。コーク粒子に今までと違った新しい統計法則を用いようとする学者もいる。コークについて意見はさまざまである。  ゲルマンがつぶやく。 「世界の物理屋さんにスリー・コークを」 7 無限大 ------------------------------------------------------------------------------- 素粒子の理論には無限大の困難が内在する。それをめぐって多くの苦闘が展開された。凝集力場の理論,くりこみの理論はその成果であった。しかし,まだ問題は終わっていない。 妖気  信濃ではすでに,秋の声を聞く頃には冬じたくがはじまる。富士見高原に戦火をさけて疎開したN大学の坂田チームは,終戦の年もここで越そうと準備していた。いま検討中の問題が重大な山場にかかっていたので,一冬十分討論して解決の道を見つけたいと思ったからである。  問題は,素粒子論にあらわれる“無限大の困難”とよばれるジレンマであった。それについてはいま少し説明しなければならない。ディラックの電子論から湯川の中間子論まで,素粒子の理論的追求は成功してきたかのように見える。しかしそれは表面だけの話だ。理論の内側では,全ての試みは常に宿命的な欠陥をふくみ,物理学者たちはそれに悩まされつづけてきたのである。  素粒子の問題はいろいろな現象がからみあって複雑な様子をあらわすため,どの現象についても完全な答えというものはない。たとえば,光が電子によって散乱される場合を考えると,入射する光子と,その相手の電子とを考えているだけでは話がとじない。光子が途中で別の電子・陽電子の対に変わることもあれば,電子が新しい光子を放出あるいは吸収することもある。場合によっては光や電子以外の素粒子が介入する。こういう事情をはじめから全部考えに入れるのは大変だ。そこで普通は適当な近似方法が用いられる。幸いにも,こうして求めた最初の近似的解答は非常によく現象を説明している。そのおかげで,我々は素粒子の理論をここまで進めることができた。ところが,現象によって精度の高い答えを要求される場合,次の段階の近似が問題になる。つまり,入射してくる光子が電子に散乱される前後で,新しく電子と陽電子との対を発生して姿を消し,再びその対が消滅して光があらわれるといった効果などを考えると,すべて無限大の答えというナンセンスな結果に終わるのである。どうしてこんな結果になるのか。はじめから無茶苦茶な答えが出るならともかく,最初の近似がよいだけに不思議なのである。何か得体の知れない妖気がただよっているとしか言いようがない。最初にこのことを気づいたのはハイゼンベルクであった。彼がパウリと共同で波動場の量子論をつくっていた一九二九1929年(昭和四4年)のことである。  電磁気現象を基本にさかのぼって考えると,電子と電磁場との相互作用の問題になる。電場や磁場をかけると電子は運動する。電子はそのまわりに電場をつくるが,さらに運動すると新しく磁場と電場とを生み,この電磁場が電波として空間を伝わっていく。このようにマクロの電磁現象をミクロから考えるという立場は,ずっと昔,一八九二1892年(明治二五25年)にローレンツが主張した。  ところで,電磁気現象の立役者,電子は波と粒子との二重性をもっていた。量子力学はこれをみごとに記述した。その結果電磁場はどうなったか。  量子力学誕生の動機をつくったプランクやアインシュタインの発見は,電磁場は光子の集団と見られることを教えた。光は,波と粒子の二重性をもつ対象であった。しかし,量子力学ではこの事実が十分記述されていない。その理由のひとつは,光子は電子によって放出・吸収され自由に数を増減する厄介な相手で,それに反して電子は永久に増減しない対象と思われたからだ。ところが,陽電子の発見によって事実はそうでなく,電子も自由に増減するものであることがわかった。いまや,光子と電子とは全く対等の立場になった。光子が電磁場であらわされるならば,電子も対等の波動場で考えられる。電子を粒子と見るならば,光子も粒子としてとり扱う必要がある。二重性に立った同等なとり扱いによって,光子と電子との相互作用を問題にすべし……。これがハイゼンベルクとパウリとのねらいだった。  ハイゼンベルク・パウリの理論は,量子力学を相対性理論と結びつけて,考えられる極限まで進めた最終的理論と思われた。しかし,この完全にも見える理論には重大な欠陥があった。彼らは,理論をつくりながら,すでにそのことに気づいていた。だからといって,それ以外のやりかたは直ぐに考えられそうもない。  ハイゼンベルク・パウリの理論の欠点をあげると,たとえばこうである。電子は光子を放出する。もし,電子が再び同じ光を吸収すると,表面上は全くなにごとも起こらなかったように見える。しかし,実際はその結果として電子のエネルギーが増加する。電子はいつも光を放出したり吸収したりしているので,もともとそれだけのエネルギーを持っているものと考えてもよい。電子の自己エネルギーとよばれるものだ。ところで,その自己エネルギーを計算すると答えは無限大になってしまう。電子がエネルギーをもつと,それに相当した質量があるわけだから,電子は無限に重いという結論になる。しかし,現実に電子の質量は非常に小さい。これは実に不思議な話である。どうひいき目で見ても,理論は間違っているか,そのどこかがうまくいっていないと判定しなければならない。多くの人々は,その後この欠点を解消しようとして,いろいろな努力をした。しかし,残念にも解決の道を探すことはできないのである。 基本的長さのゴ厶紐  物理学者は,一方で懐疑的であるが,他方では大胆な行動派でもある。それは,自分のもっている武器の短所も長所もよく知っているからだ。自然は彼らにもてる武器を最大限に使わせようとして次々とその姿をあらわしてくる。武器が不完全だといってたじろぐわけにはいかない。  ハイゼンベルクは理論に懐疑的であったが,中性子発見の魅力が彼に原子核構造を追うことを思いとどまらせはしなかった。彼は問題を二2つに分けようと考えた。 「原子核がどのようにつくられているかは量子力学を使って解明できるだろう。陽子や中性子の性質の追求は量子力学の範囲をこえる問題かも知れない。したがって,この二2つは別々に追求していける筈だ」  その考え通り彼は仕事をはじめた。そしてその後の歴史も彼の予想通りに進んだ。原子核理論と素粒子論の発展がそれである。だが,難かしい問題に考えた素粒子についても,量子力学や場の理論の範囲内でいくつかの問題が解明された。その代表といえるのが中間子論であろう。  彼は,一九三六1936年(昭和十一11年)頃から,再び懐疑的になった。中間子論もそろそろ山道にさしかかっていたが,何よりも電子と光との現象をとり扱う理論が,無限大の困難に悩まされていたからである。 「われわれの理論には何か不足している」  彼はこう考える。 「波動場の量子論は,相対性理論と量子力学とを結びつけたものである。相対性理論で重要な役割をするのは光速度であり,量子力学ではプランク定数だ。しかしこの二2つの定数を用いるだけでどんな量も導けるという保証がない。このことは次元を考えても明らかだ。光速度の単位はcm/secだから次元は[LT-1] ,プランク定数のそれはgcm2/secだから[ML2T-1]である。たとえば,これらを組みあわせて,[L] ,[T] ,[M]のような次元はでてこない。もし,われわれの求めている理論が自然界の現象に最終的解答をあたえるものなら,すべての量は結局,理論のなかにある定数を土台として説明されるだろう。そうなるためにはもうひとつ新しい定数,たとえば“基本的な長さ”[L]のようなものが必要になる。そうすれば,残りの[T] ,[M]の次元のものも,この長さと光速度やプランク定数とを組みあわせて出てくる。だからすべてのものが説明できる最低の資格がそろう。そう見ると,現在の理論は新定数をもたない点で不完全ということになる」 「無限大は非常に小さな距離にまで現在の理論を適用するために生じている。というのは,無限大の答えが,距離の逆数や対数のような関数を通して,電子の大きさに相当する距離をゼロにしていくために出てくるからだ。本当は距離を無暗に小さくしてはいけないので,将来の理論であらわれると期待される基本的な長さより小さなところでは今とは別なことを考えなければならない。これまでの理論を生かすとすれば,そういう小さな距離が関係するところでは理論を使うのを差しひかえる以外にない。問題は未解決のまま残るけれど,それは別に考えていけばよい」  確かに彼の考えた筋道は正しい。では,具体的にいって,どこまで今の理論が使えてどこから使えなくなるのか。どの現象に用いられて,どの現象には用いられないのか。それは明らかではない。ハイゼンベルクは基本的な長さとしてほぼ原子核の大きさに相当するものを考えた。しかし,中間子論の成功は,ハイゼンベルクの基本的長さより短いところでも理論の正しいことを示している。もし,理論の使えなくなる限界が基本的長さであるとするなら,それはさらに縮めなければならない。  ハイゼンベルクの愛弟子オイラーは,師の誕生日に短いゴム紐を贈り物とした。それには“あなたの基本的長さ”と記した紙がついていた。 「なぜだね。オイラー君」 「はい先生。あなたの基本的長さはこれこの通り伸びたり縮んだりするからです」  オイラーはゴム紐を引っ張ったり縮めたりした。ハイゼンベルクばかりでなく,世界中の物理学者がいろいろと迷っていたのである。 電気を集める力  話を富士見高原の坂田チームにもどそう。  彼らがとりあげた課題は,いままでに行なわれた無限大への攻撃の試みを再検討し,新しい突破口を開くことである。坂田はハイゼンベルクの意見に必ずしも反対ではなかったが,最初から問題を放棄せずに,今の理論のなかで困難を集中して負わせることのできる具体的な対象を求めたいと思っていた。二中間子論では,中間子論のいろいろな困難を宇宙線中間子に集中させて成功をおさめた。無限大の困難も何らかの形で集約できるかも知れない。彼は前々からこう考えていた。  こうした検討のなかで,ボップの理論がとりあげられた。ボップは一九四〇1940年(昭和十五15年)に電磁場の修正理論を考えた。それより前,ボルンとインフェルトが非線型電気力学なるものを提唱した。それは,従来の電磁場のマックスウェル方程式が電磁場を各項に一1つずつ含む線型だったのを改良し,電磁場を何個も含む項をもつ非線型性の方程式に変えたものであった。この非線型の特色を生かすならば,有限なエネルギーをもつ電子の存在までも導けるのである。これは電子と電磁場とを別々に考えず,電磁場だけですべて間にあわせるといった一元論を土台とした面白い考えであったが,とり扱いが複雑でしまいには身動きできないものとなった。 「そうなった理由は,電磁場のようなもともと場の性格をもったものと,電子という粒子性をもつものとには,本質的差があるからだ。ボルンはそのことを考えていない」  セミナーに参加した武谷はこう批判した。ところが,ボップの理論は,ボルンのように一元論の立場をとらないために,線型な方程式だけを用いて電子に有限なエネルギーを与える。ボルンと同じ効果が出るのである。確かに無限大があらわれない点で有望なものだ。  坂田チームの一員である原は重大なことに気がついた。ボップの理論が成功している理由は,電磁場のほかに,質量をもつスピン1の中間子場が混じっているためだ,というのである。つまり,電磁場と中間子場との二組の場が双方たすけあって電子の自己エネルギーに生じる無限大を消している。電子と電磁場との問題に生じる困難は,電子と作用しあう中間子場を新しく考えればこれに吸収できる。坂田の狙っていた線だ。勿論この中間子場は原子核を結びつけるパイ中間子でも,宇宙線のミュー中間子でもない。全く新しい仮説になる。しかし,ボップの行なったことは量子論を考えない範囲での話である。この理論でうまくいくからといって,これがそのまま量子論で成功するとはいえない。中間子場の存在する確率は負になるからである。存在確率が負である筈はないからナンセンスなわけだ。その点で,ボップの理論は完全に成功とはいえないのである。坂田は別のヒントを与える。 「それではメラーとローゼンフェルドとが核力で特異性を除くために行なった方法を真似たらどうでしょう。つまり谷川さんがよく御存じの,二中間子論の出発点となったものです。彼らはスピン1とスピン0の中間子場を使ったわけですが,このような混合の仕方を考えれば二2つの効果は反対にきくので,同じように自己エネルギーの無限大を消しあってくれるかも知れません。これだと,確率が負になるような特別の困難もなしに量子論でも使えるでしょう。  今の場合,ボップにならうならば,電磁場はスピン1ですから,もう一1種はスピン0の中間子場になります。それは物理的にもありそうに思えますね。電子の自己エネルギーが無限大になるのは,互いに反発しあう電気量を一点に集めるのに無限大の仕事がいるということからきているわけですから,この集中を助けるような電気的でない別の引力が必要になる。その力の場は,電子にごく近い範囲だけに生じればよいわけです。場にともなう素粒子の質量は力の到達距離に反比例しますから,この引力が重い素粒子で実現されるとしたら,その素粒子がいままで観測されていないという事実にも合っています。だから,スピン0の中間子場は電気量を凝集させる場ということになりますね。どうでしょうか」  井上と高木とが坂田の考えを検討して見ることになった。確かに予想通りに,電磁場と電子,凝集の役目をする中間子場と電子の効果は逆に出る。二2種の場と電子との結合の仕方が同じとすれば,自己エネルギーから無限大が消える。坂田チームに凱歌があがった。しかし,原はもう一つこの成果の仕上げを行なった。井上と高木との計算は電子を相対論的にとり扱っていない。やはりディラックの相対論的理論を使わなければならないはずだ。この場合にも結果は坂田の考えているようになるだろうか。原の計算結果は成功であった。電磁場と電子および凝集の役目をする中間子場と電子のそれぞれの結合の仕方を多少変えるだけでやはり無限大は消える。  すべては順調にいった。今まで誰もが試みて失敗した電子の自己エネルギーの無限大をとり去ることに成功したのである。これで素粒子論の妖気は払えると,チーム全員は思った。一九四六1946年(昭和二一21年)の春がはじまろうとしていた。 無限大の整頓  一九四七1947年(昭和二二22年)ごろ,東京はまだ戦争の爪あとがなまなましく残っていた。その頃,すでに戦後の素粒子論の競争ははじまっていた。焼けあとに残ったうすら寒いR研究所の一室では,熱心な議論が戦わされていたのである。朝永を中心としたT大学,E大学の理論物理学者のチームである。  朝永がとりあげたのは,電子が原子核で散乱される場合,電磁場がどのような効果をおよぼすかという問題であった。電子が散乱される現象は,量子力学を用いれば,最初の近似で大よそのことが説明できる。ところが,散乱の前後で電子は光子を放出したり吸収したりする。精度のよい答えを出すには近似を進めて,この効果も考えに入れなければならない。こうなると,量子力学だけでは足らず,波動場の量子論が必要になってくる。ところが,補正して求めた答えはまたまた無限大になってしまう。つまり,坂田チームを悩ました問題がここでもおこっていた。  こういう事情は,一九三八1938年(昭和十三13年)ごろ,いろいろと検討された。それから十10年もたって,なぜ朝永がこの古くさい問題に興味をもったのか,人々は不思議に思った。だが,彼にはいささか考えるところがあったのである。  それより前,一九四三1943年(昭和十八18年)に彼は“超多時間理論”を発表した。ハイゼンベルクとパウリのつくった波動場の量子論は,内容のうえでは相対性理論と量子力学とを総合しているのだが,ちょっと見ただけではそのことはわからない。そのため,いろいろの計算が大変複雑になっている。それを改良しようとして,ディラックは“多時間理論”という形式を考えたが完全な解決にはならなかった。朝永はその仕上げともいうべき,美事な理論をつくり上げたわけだ。  十10年前には,電子が散乱される問題は,古い形式で検討された。そのために困難の原因も明瞭でない。彼は,自分の考えた新しい形式でもう一度整理すれば,何が原因かがはっきりし,解決の道が見つかるだろうと思った。  電子の散乱現象の無限大を検討している朝永チームに,坂田チームが電子の自己エネルギーの発散を消すのに成功したというニュースが伝わってきた。これは放っておけない。だが,朝永チームの全員は内心,それとこれとは話が違うと考えた。電子の自己エネルギーにくらべれば,散乱にあらわれる無限大のほうがよほど複雑に見える。凝集力中間子場の理論が成功したからといって,全部の無限大が消えはしないだろう。 「電子の散乱の練習問題にもなるので,ひとつ,凝集力中間子場が無限大根治に万能でないという証明をしましょう」  名乗りをあげた木庭,伊藤の二人は複雑な計算の結果,予想通りの結論を出した。凝集力中間子場は散乱問題には通用しないというニュースはたちまち流れた。朝永はニヤニヤしながら坂田にいった。 「君の理論はお気の毒ながら,万能ではなさそうだよ」  ところが,論文を書きあげた木庭は,念のために別の方法で計算を行なってみて顔色を変えた。新しい計算の結果によれば,凝集力中間子場は美事に無限大をとり除いている。 「電子の散乱現象について,電磁場を放出・吸収する効果を求める際あらわれる無限大も,凝集力中間子場を用いると完全に除くことができます。以前にこの点について誤った報告をしたおわびは,この通りです」  木庭はいって,丸坊主の頭をなぜた。彼のふさふさとした毛がなくなっていた。 「これは,朝永先生の新しい方法を用いたおかげです。間違った答えを出した計算は古い方法によるもので,十10年前の計算にも誤りがあります。また,この新しい方法によって,全く性格の違った別の発散があることもわかりました。これは,凝集力中間子場のねらいのなかになかったもので,これによって坂田理論の成功の価値が下がるものではありません」  朝永チームも,新しい型の無限大を発見するという別の得点を得ることになった。彼らが焼け跡の東京でつかんだのは,いろいろの無限大が結局二2つのタイプにまとめられる,という事実である。一1つのタイプは凝集力中間子場で避けられる性質のもので,電子の自己エネルギーと同じ根をもっている。凝集力中間子場はそれを明確にとり出してくれたわけだ。無限大の大半をまとめてしまって残ったものは別のタイプということになる。この別のタイプは真空が偏極を起こす結果生じる。真空でない媒質では外から電磁場を加えると,電気の正・負がわかれる。これを偏極という。真空が外から加えた電磁場で偏極することは昔は考えられない話だった。ところがディラックの理論で示したように真空には負エネルギーの電子が無限につまっている。このため,電磁場を加えると,その一部が正エネルギーになったりするため,正・負の電気がわかれて偏極するのである。電子の作用は偏極した媒質を通すことになるから電子の電気量を変える効果となってあらわれる。すると,この新しい無限大は,結局電子の電気量をゼロとしてしまう。 シェルター島の頭脳  日本の物理学者が活動を始めた頃,アメリカでもすでに競争は開始されていた。  一九四七1947年(昭和二二22年)六6月,シェルター島では,ある実験結果をめぐって物理学者たちが熱心な討議を続けていた。ラムとレザフォードとが,水素原子のエネルギー準位にある“超微細なずれ”を発見したのだ。水素原子のエネルギー準位といえば,バルマーが見つけたスペクトル線の系列は量子力学が生まれる足がかりとなったから,その因縁は浅くない。  スペクトル線は,原子内の電子がもついろいろな状態にエネルギーの差があるためだ。それらの線をさらによく見ると,一1本に見えるものが実は何本かの線の集まりであることがわかる。これはほとんど同じエネルギーをもつ電子に少しずつ違った状態があるためで,その僅かなエネルギーの差がスペクトルに微細構造を与える。ディラックの相対論的電子論の成功のひとつはこれを説明したことだった。しかしそれでもなお同じエネルギーをもつ違った状態の電子が残っていて,同一スペクトル線を与える。もはやエネルギーの値が違う理由もなく実験でも識別できない。  そう考えていた物理学者の間に,ラムとレザフォードは,微細よりこまかい超微細な線の隔たりが識別できたという結果を投げこんだ。彼らはレーダーの開発で進んだマイクロ波技術を応用して二2つの重なっていると思われた状態とその上の状態とのエネルギー差を正確に測った。そのエネルギー差,つまりスペクトル線には違いがある。そうであれば二2つの状態が重なっていると考えたのは間違いだ。では重ならない理由はないか。理論物理学者はその答えを見つけなければならない。集まったアメリカを代表する物理学者,オッペンハイマー,べーテ,ワイスコップ,シュウインガーなどは,頭をかかえた。 「原子核の力が電子の運動に影響するのかも知れない」 「真空が偏極する効果がきいてくるのではなかろうか」 「しかし,それらはいずれも小さすぎる。ラムの結果は約一〇〇〇1000メガサイクルの小さなずれであるから,これを説明するにはその効果ではとても足りない」  ようやくにして一人がいい出した。 「電子の自己エネルギーによるものではないだろうか」 「なるほど,そうかも知れない。しかし,電子の自己エネルギーを計算すれば無限大になる。それでは計算しても答えが出せないではないか」 「いや,答えが出せる可能性はある。二2つの準位では電子の運動状態が違っている。これは多分かなりきわどい話だが,運動状態の違った電子の自己エネルギーは,たとえ無限大でも二2つの答えには差が生じる筈で,同じ質の無限大だから,無限大マイナス無限大という結果は有限になる筈だ。それがうまくいけば,有限なエネルギーのずれを説明できるだろう」 「無限大マイナス無限大といったきわどい芸とうをやって,果たして期待する大きさの量が得られるだろうか」  誰も本当は自信がなかった。しかし,これ以外にどんな理由も見つからないのだ。  べーテが,早速計算をひき受けた。彼は,さしあたり電子を相対論的に扱うことをやめ,多少不満足な点をがまんしたおかげで,二2週間で答えを出した。その答えは一〇四〇1040メガサイクルであった。ラムたちの結果とズバリ一致しているのである。彼らの予想は当人たちも驚いた程適中していた。  このニュースはたちまち世界中に伝わった。いままで,無限大は処置に困る邪魔ものと思いこみ,そのため理論の結果を何処まで信用してよいか途方にくれていた多くの人々は,うまく無限大を処理すれば,手持ちの理論もかなり役立つものであることを知った。どうすればうまく処理できるのか。それが成功したとして,ちゃんとした理論で求めたラムのずれはどのくらいになるのだろう。人々の関心はその点に集まった。  いろいろの形をとってあらわれた無限大は,結局二つにまとめられる。その一つは電子の質量を,他の一つは電気量を変える効果と見なすことができる。ただ,その変えかたが無限大なのが不満足なのである。そこで逆に規準をずらして,無限大の量だけ変わった結果,実際に観測されている電子の有限な質量と電気量とになったと見直すなら,無限大の結果は質量と電気量とにおしこめられる。質量と電気量との無限大になる話に目をつぶれば,その他の現象では無限大は完全に姿を消す筈だ。ともかく,無限大をくりこんでしまおう。多くの人々は殆ど同時に同じような考えに到達した。だが,“くりこみ”のアイデアを完全な理論形式で示したのは,朝永チームと,朝永の超多時間理論に刺戟されてスタートしたシュウインガーと,全く特異な方法をとったファインマンであった。こうして,電子と電磁場とについて素粒子の理論は一応の危機を避けることができた。  現在この方法で求めた答えはどうか。ラムのずれの実測値は一〇五七・八1057.8メガサイクル,その理論値は一〇五七・九1057.9メガサイクルである。 続く試み  朝永,シュウインガー,ファインマンによって作られた電子と電磁場とに関する理論は成功であった。無限大の難問が完全に解決したわけではないが,その難所を確実に避けて通る道がみつかったのである。世界中の物理学者がわれもわれもとその方法を用い,考えつくあらゆる現象の答えをあさった。また,この方法は固体の性質をしらべるうえにも有効であった。  素粒子論は,相対論的量子力学(とくに量子電気力学)が華やかに展開されていた一九四〇1940年代から,一九七〇1970年代の現在にかけて変わってきた。いまでは,素粒子論は電子と光子とだけではなく,莫大な種類の素粒子を相手にしている。光と電子とだけ考える量子論は,逆に非常に特殊なものと見られている。  質量と電気量のなかに隔離してみたものの,無限大はやはりどこかに欠陥をあらわすものである。無限大をくりこむ処法は中間子論では使えないだろうといわれた。くりこみ処法が使えるような理論だけ考えればよいという哲学も,一時は流行した。  朝永がくりこみ理論を提唱したとき,彼は二2つの段階を分けて考えようとした。まず,無限大の亡霊に金しばりにあった理論を,実際の現象に対決できるようにしよう。そのうえで,無限大を処理できる将来の理論をつくろう,というのであった。  複雑な素粒子に立ち向かうようになった多くの科学者は,いきおい前の道を進んだ。現象とぴったり結びつく方法として,“分散公式の理論”が使われるようになった。大雑把ないいかたをすれば甲の現象と乙の現象とをその公式によって結びつけ,一方の知識から他方を結論する。  現在の素粒子論は高いエネルギーの領域,つまり微小な距離にまでも本当に使えるのだろうか。それは実験の結果と理論の答えとを対決させて判定できる筈である。  甲の物理学者はいう。 「無限大はそれを消すような粒子が別にあって,別の粒子の無限大をまたその次が消すという仕組みが自然にはあるのでしょうね。自然の答えには無限大はないし,なにしろ莫大な種類の素粒子がありそうですから」  また,乙の物理学者は違った意見を出す。 「今のように急速に素粒子現象の知識が集積されている時代には,現象を整理するための武器がいる。それが分散公式かも知れません。しかし,それらが本当に自然の根本法則を支配する理論とは思えませんね。丁度,昔の熱現象の理論と似ています。あれは,もっと本当のもの,つまり分子の理論におきかえられました。素粒子現象についても次にもっと基本的な理論が必要になるだろうし,無限大の問題も隔離しているだけでなく本気で考えるようになると思いますよ」  素粒子論に存在する無限大について,いまではかなりの意見の差がある。当然のことだが,無限大の問題が残っているかぎり,その論争はつづいていく。 8 非局所場 ------------------------------------------------------------------------------- 素粒子論の困難のひとつは素粒子の大きさを考えれば解決されるだろう。だが,それは決して簡単な問題ではない。量子力学と相対性理論とが大きな壁となって前方に立ちふさがっている。その彼方へ向かって努力がはじまる。 湯川のマル  K大学物理学教室の新館からは,窓ごしに比叡山がくっきりと眺められる。周囲を農場に囲まれたこのあたりは,時々遠くから山羊の声が聞こえるくらいで,静寂そのものといってよい。昭和のはじめ頃の大学はこんなのどかな場所であった。  二人の青年は新しい物理学に向かって毎日努力を積み重ねていた。一人は部屋のなかをいったりきたりしながら考える。もう一人は机に向かってじっと想をねっている。二人の頭にはさまざまなアイデアが浮かんでくる。だが,これはと思った着想も一日じっくりととり組んでみると,全くナンセンスに思えてしまう。そして翌朝,また元気を出して考え直すのである。  湯川と朝永とがK大学を卒業した年,ハイゼンベルクとパウリとは共同で波動場の量子論をつくった。量子力学と相対性理論との完全な統一と思われたこの理論も,実は無限大という欠陥をもっていたことは前にのべた。若い,野心にもえる二人の青年が,この欠陥を自分の手でとり除いてやろうと考えたとしても無理からぬことであった。青年のめざすところは,いつの時代にも,荒野である。けっきょく,問題はすぐさま若者の手におえるほど簡単なものではなかった。が,彼らが野望を抱いたことは無駄ではなかった。それから二十20年ほどのち,朝永は無限大を隔離するくりこみ理論を建設し,湯川は無限大を有限化する方法として非局所場理論を提唱することになったからである。  話をもとに戻そう。二人が考えていたのは,無限大の生じるしくみを変えて困難を避けることであった。 「無限大は,短い波長をもつ波動が関係してくるからあらわれる。一定の大きさを持つ物体は,物体の大きさより短い波長をもつ波を決して乱さない。つまり,そのような波は物体と相互作用をしない。電子と電磁波についても,この考えは適用できそうだ」 「その通りだ。もし,電子が大きさをもっていれば,電子との相互作用で関係する電磁波は,電子の大きさよりも波長の長いものに限られ,無限大が生じる筈がない。現在の波動場の量子論では,電子の大きさが考えにいれられていない。このため,短い波を制限できないから無限大がおこってくるのだ」 「だが,その考えをどのようにして量子論のなかに持ちこむか」  彼らが頭を痛めるのはこの点である。 「確かに,むずかしい。波動場の量子論は相対性理論にしたがうというきびしい枠がある。電子の大きさという考えは,必ずしもこれと調和しない。運動する座標系から見れば,ある場合には電子の大きさが短縮し,別の場合にはそれが伸長してしまう。どれが本当の大きさかはっきりしないからだ」 「それに相対性理論では空間も時間も対等であるから,電子は空間に広がるばかりではない。時間の方向にも広がるという奇妙なことになる」  長い間,彼らはこの問題を追った。  数年がすぎた。……  湯川は黒板にマルを書くことが多くなった。マルの横には時間と空間とを縦と横にかいた座標がつけられていた。彼は,時間方向にも空間方向にも公平に広がった記述形式を考えようとしていた。もし,こういう記述形式ができるならば,空間的にも時間的にも広がった素粒子をとり扱えると思ったからである。  しかし,それは難しい問題である。物理学の法則は普通,一定の時刻に用意された対象が,それからのちの時間でどう変わるかを記述するように作られる。このことは,量子力学においても,波動場の量子論においても同じである。ところが,彼は,ある時間の前後にわたった対象を一ぺんに一つの事件として記述しようというのだから大変だ。第一,その対象ではどれが原因でどれが結果なのか,因果関係が目茶苦茶になってしまう。一人の人物の赤ん坊時代,青年時代,老年時代の写真をつぎあわせて,その人物の写真だといったら大変おかしなものになる。赤ん坊の顔にはそれ相当な身体がなければいかにも変であろう。しかし,素粒子の世界では,これと似たようなことを考えなくてはならない。  朝永は湯川の考えたマルをじっと見ている。 「湯川さんの考えは面白い。だが,多少無理のようだ。もっと別のやりかたをすればうまくいくのじゃないかな」  しかし,彼らにはまだ突破口が見つからなかった。そして,二人は東と西に別々の道を歩きはじめた。一九三〇1930年(昭和五5年)頃であった。  その後……。朝永はR研究所で電子と光との現象にとり組むようになった。湯川はO大学に移り原子核の謎に挑戦した。湯川は中間子論を提唱し,朝永は中間子の新しいとり扱い方を考えだした。だが,彼らは再びマルの問題に立ち戻った。  一九四三1943年(昭和十八18年),朝永は超多時間理論を提唱した。そこでは,湯川のマルが平たくされて生きていた。朝永はマルの一部はやはり過去とし,他の部分を未来とすることで,前の難問を切り抜けた。彼は,マルを猫の目のような,円盤のような形に変えることで,相対性理論と美事に調和した理論を得たのである。  湯川のマルは,空飛ぶ円盤に変わり,くりこみ理論に縦横の活躍をはじめることとなった。 あとの続かない試み  話を少し前にもどそう。 「仮に中間子論が成功したとしても,無限大の欠陥が残っているかぎり,素粒子論は本物ではない」  湯川が再び考えるようになったのは,中間子論が軌道に乗るようになってからである。  湯川を中心とするグループが中間子論を建設している間,海外では無限大をめぐっていろいろな試みが続けられていた。一九三四1934年(昭和九9年)にワタギンは,問題になる短い波長の一部分をなくすような切断因子を持ちこもうとした。だが,どうして切断因子がでてくるのか。彼は答えていない。  その答えらしいものを一九四〇1940年(昭和十五15年)マルコフが出した。彼は時間・空間の座標と素粒子の場をあらわす関数,つまり場の量とが同時に正確に測れない理論を考えた。場の量はふつう位置から正確にきまる関数と考えられている。ところが,量子力学において位置と運動量とは,同時に正確に測れない。彼の理論によると,場の量を正確に決めると,時間・空間の座標はある程度不確かさをもってしまう。座標の不確かさの範囲でしか電子の存在がいえないことになるから,これが電子の大きさになる。重大なヒントを得た湯川は再びこの問題を追い始めた。 「座標と同時には正確に測れない場の量を考えるのは,理論のなかに素粒子の大きさを入れる最もよいやりかただ。だが,その場の量はどんな関数で与えられるのだろう。それを定める方程式とはどんなものなのか」 「場が座標と同時に確定できないためには,場の量は座標のほかに運動量を変数として含んでいる筈だ。なぜなら,量子力学で座標と同時に正確に測れないのは運動量だからだ。同じように場の量は運動量とも同時に確定できなくなるだろう。座標と運動量とは量子力学では全く対称的な役割を果たしてきたからである。ボルンは,場の理論にもこれらの二2つの量の対称的な役割をもちこむ相反原理なるものを考えているが,これは重大な点だ」  しばらくの間,物理学会の講演の最後はいつもきまって,湯川の“素粒子論における一つの試み”が続いた。学会に出席した人々は,名物の渡辺と武谷との物理学の進めかたについてのやりとり,すなわち,渡辺とその楽団に爆笑し,そして最後に,深刻に悩む湯川の一つの試みで物理学の難しさを味わった。座標と運動量との関数としての場の量とは……。  朝永の猫の目の形式にはじまるくりこみ理論が急速に進みはじめた。ほとんどの物理学者はそのすばらしさに目をうばわれていた。だが,くりこみ理論では無限大の問題は解決していない。湯川は相変わらずわが道を進んでいた。  一九四九1949年(昭和二四24年),渡米した湯川はとうとう非局所場の考えに到達し,美しい方程式の組みをつくりあげた。プリンストン高級研究所で彼は語っていた。 「いままで考えられてきた場の量は,一1組の時間・空間の座標で定まるという意味で,ディラックが名づけたように局所的な場ということができます。これに対して,たくさんの座標の組を考えなければ決定できない場の量を考えます。これは,非局所的な(点のように局所化することができない)場と名づけます。その局所化できなさが素粒子の大きさを与えているわけです」  彼は非局所場に対して考えた方程式をあげた。それは,マルコフの考えはもちろんのこと,ボルンの座標と運動量との相反原理をとり入れたものであった。 「その方程式をしらべてみますと,非局所場は二2組の座標によって定まることがわかります。局所場を構造を考えない一1つの原子にたとえるならば,非局所場は二2原子分子に相当しています。分子は全体の移動と重心のまわりの回転との二2つの運動をするのは御承知のことでしょう。分子の移動は一原子の場合と変わらないが,分子が一原子と違っているのは回転できる点です。回転している分子は,外部からくる波に対して,あたかも二2つの原子間の距離を直径とする大きな原子と同じように振舞うでありましょう。非局所場は丁度これと似たものとなっています」  質問が出る。 「大きさが考えにいれられていることから,発散も多分消し去ることができるわけですね」 「それがこの理論のねらいです」  湯川は多くの期待をもった。プリンストン高級研究所には,世界の各地からいろいろの学者が集まる。パウリもその一人であった。皮肉屋のパウリは,湯川に会うやいなや,こういった。 「君の仕事はなかなか面白い。とくに論文のタイトルにIと書いた点が気にいった。しかし,残念ながら,IIという論文は永久に出ないだろう」 帰国みやげ  コロンビア大学の研究室の黒板には一面に数式が書かれている。その前をいったり来たりしながら湯川は考えにふけっている。彼の頭のなかでは新しい論文の構想がまとまろうとしていた。 「おかしいな」  彼はつぶやくと,黒板の数式をおしげもなく消してしまった。そして,また新しいチョークの乱舞の跡が黒板をうめはじめる。  一九五三1953年(昭和二八28年)のはじめ,湯川は帰国前の多忙な時間をさいて研究にうちこんでいた。彼は,アメリカでの研究生活のピリオドとも,これからの日本での研究のスタートともなる今の仕事を,ぜひ仕上げたいと思ったのである。  彼は非局所場の理論を提唱した。それは,素粒子が大きさを持つことを考えにいれて,無限大のあらわれる病根を絶ってしまおうとするものであった。彼がアメリカでずっととり組んできたのが,この理論である。  素粒子を点状のものと考えているこれまでの理論から一歩でることは,非常に努力のいる話で,多分十中八九は不成功に終わるかもしれない。湯川の考えた非局所場といえども楽観はできない。パウリが皮肉をいったのも理由がある。湯川はパウリに反発してIIの論文を作ったが,結果は満足なものでなかった。日本の若い研究者たちが非局所場理論を検討した結果がアメリカにいる彼のもとに次々と送られてくる。それを見ると,無限大が根絶したとはまだいえないようである。しかし,湯川は非局所場のねらいが根本から間違っているとは思っていない。 「非局所場には局所場にないすぐれた点がある。それは,いままでの理論では素粒子の種類ごとに別々の局所場を用意しなければならなかったのに対して,非局所場ではいろいろな種類の素粒子をひとまとめにとり扱えるからだ。これまで考えた非局所場ではこの点が十分考えられているとはいえないが,それはこれからの問題である。ともかく,素粒子論の現状から見て正しい方向に進んでいることは確かだと思う。新粒子の発見によって,素粒子の種類は増したけれど,新しく登場した素粒子は古い素粒子と役割がダブっている。この事実に注目すれば,いろいろな素粒子はひとまとめの組にして見ていけるに違いない。だから,素粒子の組を扱う非局所場の利点は十分生かされる。非局所場は素粒子を統一的に記述する適当な量なのだ」 「日本での分析でわかったように,無限大が根絶できない理由をもう一度考え直してみなければならない。これは多分素粒子の大きさが最初の予想通りにうまく理論にとり入れられていないためであろう。個々の素粒子の大きさといっても,それぞれの素粒子は皆別々の大きさ,もっと一般的にいえば別々の構造をもっているかも知れない。そのうえ,素粒子が互いに相互作用をおよぼしあう限り,おのおのの構造も別の素粒子の影響をうけてきまってくるに違いない」  こう自問自答していった湯川は,重大なことに気がついた。 「素粒子論の無限大が根絶できないのは,ひとつひとつの素粒子だけを考えているからに違いない。この世界にいろいろな種類の素粒子があるという事実と,無限大の根絶とは切り離せないであろう」  これは,坂田が凝集力中間子場でとりあげた考えと似ている。しかし,湯川はもっと根本から考えようとした。この世界になぜたくさんの種類の素粒子があるかを解きあかすことが,同時に無限大を根絶する道に通じている……。 「個々の素粒子の構造と,いろいろな素粒子の存在とは,同一の根拠をもっている。素粒子にいろいろな質量をもったものがあるという事実と素粒子の構造とを結びつけてみよう」  彼はこう考え,ひとつの論文を完成した。それは“素粒子の構造と質量スペクトル”と題がつけられた。素粒子の大きさだけを追った今までの非局所場を,より大きなスケールの“素粒子の統一理論”へ飛躍させる出発点であった。湯川は価値のあるプレゼントをもって日本へ帰った。 点と線  イタリアの雑誌にのった論文が,三3年間もその重要さに気づかれずにいたということは,情報の発達した今日でもおこる。  一九五九1959年(昭和三四34年),レッジェは面白いことに気がついた。  粒子が適当な力でどのくらい散乱されるかは,この現象がどのくらいの確かさでおこるかという確率の問題である。量子力学では平方すれば確率になる確率の波を考えるので,結局散乱についての確率の波を知ることが問題である。確率の波は粒子の集まりをあらわすから,そのなかの粒子を角運動量の違いに応じて組みわけすると便利である。角運動量の値が違う粒子は特定の方向に散乱される割合も別であるから,散乱後に粒子がどのように分布するかはっきりわかるからである。量子力学では角運動量は0,1,2……といった整数の値しか許されない。散乱される波全体もこれらのいろいろな整数値をとる角運動量に応じた個々の波の重ねあわせになっている。そこでいろいろな方向で散乱粒子をとらえるよう実験を工夫して,方向についての分布を求め,理論と結果とをつきあわせてみると,どんな角運動量をもつ粒子が多く散乱されるかがわかる。その結果から,粒子の性質や粒子を散乱する力の様子が推定されてくる。これがいままでの散乱の問題の解きかたであった。  このやりかたは,とびこむ粒子のエネルギーが低いと余りいろいろな角運動量をもつものがないので成功した。しかし,粒子のエネルギーが高くなると,いろいろな角運動量をもつ粒子がまじりあって非常に複雑になってしまう。それをもっと簡単で見通しよいものにするにはどうするか。確率の波を,角運動量を複素数の変数とした複素関数と考えなおすとよい。これがレッジェの主張の要点だ。  角運動量はなにも整数に限る必要はなく,実数部も虚数部ももって,その値が連続的に(とびとびでなく)変わるとしてみる。それに応じて確率の波の様子も変化する。確率の波は粒子のエネルギーによって左右される筈だから,結局は角運動量とエネルギーとの間に関係がついている。エネルギーを変えると角運動量が変わり,確率の波の様子が変わるというしくみだ。また,エネルギーによる確率の波のかわりかたがわかれば,それに応じた角運動量のききかたもわかる。ところで,量子力学では角運動量は整数値をとる筈であった。だから,この考えは矛盾しているように思われる。  そこで,レッジェはこういう解釈をした。角運動量の実数部の値が変化して,それがちょうど整数値をとる場合に確率の波が急にそれ以外の場合と違って極端に大きな値となるものとする。それならば,結局その大きな値のところだけが目立つから,それで現実の確率の波がきまってしまう。こうすれば,いままで量子力学で整数の角運動量だけを考えればよかったことの納得がいく。  レッジェの発見はややこしい数学上の技法にすぎないように見えた。それが,彼の理論を三3年間ねむらせた原因だった。だが,その考えのなかに思いもかけない手がかりがあった。  一九六二1962年(昭和三七37年)になって,チューとフラウチとはこの死んだような怪物フランケンシュタインをよみがえらせた。レッジェ理論の特徴は,角運動量とエネルギーとに一定の関係がつけられるという点である。それに,確率の波が角運動量の関数で与えられることは,高いエネルギーでの現象を見ていくのにも好都合である。 「これは素粒子の理論としても使える。レッジェの考えが成り立つためには,粒子を散乱する力に制限があって,どんな力の場合にもそれが有効なわけではない。ところが,素粒子の間に働く力がどんなものかがそれほどはっきりしていないから,この理論をもちこむのはひとつの冒険である。その冒険をあえてしてみよう」  こう決心したのが,彼らの幸運であった。 「素粒子と素粒子とが衝突をおこす場合,ふたつの素粒子が集まって新しい状態をつくる。その場合にレッジェの理論をあてはめ,新しい状態のもつ角運動量は複素数と考え直し,それがエネルギーとともに変わるとする。角運動量が実数でいる間は,状態は衝突した素粒子から合成された複合粒子として振舞い,ちょうど整数値をとるような状態が現実に顔を出し,ふつうの素粒子と見られる。ところが,エネルギーの高い場合,角運動量は実数でなくなり,複素数になる。虚数部の大きさは,状態が崩壊する様子を示し,安定でない素粒子,つまり共鳴状態のように振舞う筈である。この場合にも,角運動量の実数部が整数となる状態が現実に顔をだすことはふつうの素粒子と同じであろう。それが観測されている共鳴状態である。角運動量の実数部だけ見るならば,複合粒子も共鳴状態も区別なく,エネルギーに応じて角運動量はいろいろの整数値をとるから,角運動量とエネルギーを縦横にとった図では点が規則正しくならぶだろう。もし,角運動量が整数にならぬ場合もついでに考えに入れれば,点は線に変わる筈だ」  チューの予想は適中した。横軸にエネルギーの平方を,縦軸に角運動量,つまりスピンをとったグラフに,次々と発見される素粒子や素粒子の共鳴状態を書きこんでいくと,それらが美事な直線を画いてならび始めた。もちろん,現実に見られるものはグラフ上のとびとびの点にすぎない。だが,点が規則正しくならぶならば,点と点とを結ぶ線を考えることは意味がある。エネルギーとは素粒子の質量と同じことである。角運動量は単独の素粒子についていえば素粒子のスピンのことだ。その間に簡単な関係があった。それは重大な発見である。今まで質量もスピンも違うためにバラバラに見えていた多くの素粒子が,この簡単な関係のもとで一本の筋が通ってきた。素粒子をさらに統一するものがその背後にあることを,明白に語っている。 スピンの謎  ナトリウム灯の黄色を足場として,素粒子の固有な角運動量,つまりスピンが考えだされた。それから四十40年。現代の我々は,素粒子の質量とスピンとの間に重大な関係があることを見つけた。この問題に関する限り,物理学者たちは遠いまわり道をしていた。ウーレンベックとハウトシュミットとがはじめて電子のスピンを考えだしたとき,彼等は非常に現代的な見かたをしていた。彼らは,大きさのある電子が自転するためスピンが生まれると考えた。回転運動をすれば,当然その物体は回転のエネルギーをもっている。つまり,質量は回転運動と関係している筈だ。 素粒子の質量とスピンとの関係についての手がかりは,ここにあった。だが,ディラックが相対論的電子論で“点”状の粒子にスピンを与える方式をきずいてしまってから,素粒子を点状と見る立場が物理学を支配し,遠まわりの道がはじまった。各種の素粒子は,スピンと質量とを相互に関係なく勝手にもちうる対象としてとり扱われるようになった。  しかし,物理学の主流からはずれて,わずかな人々はスピンの具体的なイメージを考えようとした。ヘンルとパパペトロフ,ボップらは一九四〇1940年代に,電子の内部運動をとりあげ,スピンと質量との関係を熱心に追求した。陽電子,中性子,中間子など最初の素粒子群の発見が続いた時代であったが,そのわずかな素粒子を相手として,すでに素粒子の関係を求める今日の課題を感じとっていたかのようである。  非局所場が導かれたとき,この理論は素粒子の大きさ—→スピン—→質量といったレールの上を進みはじめていた。非局所場をきめる時間・空間的な変数は二2組ある。その一つは局所場と同じ役割をするものだが,もう一つは局所場にはなかった変数である。この新しい変数は素粒子の自転と伸び縮みとの運動をきめている。自転の大きさは素粒子のスピンを与える。非局所場は違った自転のものを同一の根拠からみるという意味で,スピン値の違ういろいろな素粒子をひとまとめにとり扱える利点をもっている。  湯川は,質量と内部構造との関係を考え,素粒子の統一理論をつくろうとした。スピンをことさらとりあげなくとも,素粒子の大きさ—→質量の近道を進むことから始めれば,自然にスピンの問題が含まれると思ったからである。彼の考えた通り,素粒子の質量は自転と伸び縮みとに関係し,スピンが違うばかりでなく,同じスピンをもつ一連の親子関係をもつ素粒子までも一まとめにとり扱えたのである。  ひとつの理論が正しく評価されるまでには,いろいろと別の角度からの検討や,ちがう可能性が試される。非局所場の統一理論が提唱されると同時に,原チームが,質量とスピンとを直接に結びつける可能性,つまり素粒子の大きさ—→スピン—→質量のレールをしらべた。彼らは内部の時間・空間的な自転を二2つに分解し,空間的な自転からスピンを,時間的な自転から質量を導こうという二段がまえをとったのである。空間的な自転と時間的な自転との間に一定の関係があるから,質量とスピンとは結果において関係がつく。それは,質量とスピンを形式のうえでわけ,実際には関係させる考えで,理論物理学者の得意の高等戦術である。 「確かに面白い。だが,時間的な自転とは何を意味しているのだろう」 「いや難しすぎる。そんな手のこんだことは必要だろうか」  原チームの理論はそんな批判を受けていた。しかし,彼らは素粒子の自転について再び人々が考え直すきっかけを与えたのである。  彼らがスピンと質量との関係を考えていた頃,素粒子は今日ほどたくさん見いだされていなかった。素粒子の背後にひそむ深い関係が経験によって明確にならない時代には,それらの試みは,多くの人々にとってどうでもよいことのように見えたのである。 新しい鍵 「非局所場はレッジェの理論を解明する鍵ではないだろうか」  一九六七1967年(昭和四二42年)になって,田中はこのことに気づいた。 「いろいろな素粒子や素粒子の共鳴状態の質量とスピンとの間には美事な関係がある。この事実は,素粒子の共鳴状態が発見されるにつれてますます確かになった。だがレッジェの理論が素粒子に使えるというのは仮定にすぎない。素粒子どうしが衝突する際,その間にどんな力が働くかはわかっていないからである。もし場の理論を信用すれば,衝突粒子は互いに別の粒子をやりとりして力をおよぼしあうものと考えられる。これを局所場で考えると,やりとりされるものは特定な質量とスピンとをもつ粒子だけで,決してレッジェのように質量とスピンとの間に関係のある素粒子の集団にはならない。衝突の瞬間にはもっと複雑なことがおこっていて,粒子のやりとりといったふつうの簡単な解釈ができないのだろうと,多くの人々は考えている。しかし,それでは答えにはならない」  彼は,非局所場が違ったスピンをもつ素粒子をひとまとめにしているという特徴に着目した。 「もし衝突する粒子が互いに非局所場をやりとりするなら,それはスピンに関係して変わる質量をもつ粒子の集団としてあらわれるだろう。この様子はレッジェの理論とぴったり結びつく」  彼は,こうして非局所場を素粒子の現象のなかにもちこんだ。非局所場の研究者が,素粒子の模型の検討に追われて高エネルギー物理の豊かな収獲をかりとるまでになっていない。他方ではそんな問題は従前通りの点状な素粒子でしか考えようがないと思われていた。彼の試みは,このふたつの間の溝をうめる役目を果たした。  素粒子が非局所場をやりとりして互いに交渉しあうということは,素粒子が時間的・空間的に広がった粒子を放出したり吸収したりするという意味になる。その粒子も素粒子の一種であるに違いないとするならば,それを放出したり吸収したりしている素粒子も同じように時間的・空間的に広がったものと考えるのが筋である。  こう見ていくと,素粒子という考えも,最初に考えだした頃とは大分違ってくることに気づくであろう。電子・光子・陽子の三3種の素粒子から出発した頃には,素粒子は電気量,質量,スピンなどがそれぞれ定まった値をもつ粒子,あるいはある現象を代表する粒子と考えられていた。素粒子の発見が進むにつれて,同じ現象を代表するのは単独な素粒子に限られず,いろいろな素粒子の集団であることがわかった。だから,素粒子の集団こそ,出発点の素粒子に近い役目をしていると見なければならない。レッジェの理論は,素粒子の集団がスピンと質量との一定の関係でしばられるひとつの対象物であることを暗示する。この素粒子の集団こそ,現代では素粒子とよぶにふさわしい。この新しい素粒子をとり扱う量として,非局所場は重要な可能性を与える。  だが,この問題はこれから検討されていくものである。世界中の巨大加速器が日夜莫大な数の現象の知識を生み,それとともにいろいろな考えかたが提出されている。まだ早急には結論はだせないからだ。  素粒子の衝突の際,レッジェ理論の粒子をやりとりするというみかたもできるが,衝突する素粒子が集まって共鳴状態をつくるというみかたもできる。ふたつの違ったみかたは,実はひとつのものに対する別のあらわれかたに原因していることが,最近になって明白になってきた。一方では第一と第二2の粒子があって第三3の粒子がやりとりされると見られ,他方では第一も第二2の粒子もなくなり第三3の粒子だけが存在していると考えるのであるから,全く違った性質が期待されてよい筈である。二重の性格をもっているといえる。  素粒子について,二十20世紀のはじめに波と粒子との二重人格があらわれた。これは,量子力学を生む動機となった。そして,現代では,再び素粒子の行動に別な意味の二重性格があらわれている。これを解く鍵はなにか。世界の物理学者は挑戦を続けている。 9 素領域 ------------------------------------------------------------------------------- 素粒子の問題は,けっきょく素粒子が存在する時間・空間の世界の問題にかえる。素粒子から考えられる時間・空間とはどんなものか。それをたどると時間・空間の原子性という考えにいきつく。 ホテルと客 「夫レ天地者,万物之逆旅ニシテ,光陰者,百代之過客ナリ。という李白の文がありますね。逆旅とは宿屋,つまりホテルという意味なんですよ」  こんな話が始まった。高校の漢文の時間でも予備校の講義でもない。理論物理学者が,素粒子ととり組んでいる研究集会での討論である。 「私はこの句が素粒子を考えていくうえで大変重要なヒントを与えていると思っています。入れかわり立ちかわり旅人が宿屋にとまる。そして月日が立っていく。宿屋があるから旅人がとまるともいえるでしょうが,旅人がいるから宿屋ができるとも考えられます。天地と万物とはどっちが先ともいえませんね。  天地というのは,時間・空間のことで,ふつうにはいろいろな現象がおこる場所,それらを記述する道具と考えられています。万物はつきつめれば素粒子ということになりますね。そこで,李白によると,時間・空間は素粒子のとまる宿屋だというわけです。すると,時間・空間があって素粒子が宿るともいえるし,素粒子があるから時間・空間ができるとも考えられることになります」  こう湯川は話を続けた。出席者はみなかしこまって拝聴しているような顔をしているが,受けとりかたはいろいろである。偉い先生の話だからとおそれかしこんでいた日には,素粒子の問題など永久に自分の手で解決できない,と思っている連中ばかりである。 「また例によって始まったな」 「話はわかるけど,とても物理にはなりそうもない」  こういう調子で若い連中の評判はよくない。それも無理のない話である。湯川が逆旅の思想をいいだした頃,彼の頭のなかでも,それは明確なイメージにかたまっていたわけではない。どんな思想でも,それが具体的な形をとるまでは,物理学とはいえないからだ。しかし,彼はいつかはそれが実のあるものとなるだろうと自信をもっている。  彼がこう信じる背景には,アインシュタインが一九一五1915年(大正四4年)に提出した一般相対性理論があった。一九〇五1905年(明治三八38年),アインシュタインは特殊相対性理論を発表し,時間・空間が観測者の運動状態と無関係に考えられないことを強調した。これは,いままで時間・空間が観測者の行動と全く独立にあると考えていた人々に重大な反省を投げかけたのである。だが一般相対性理論はそれと桁ちがいに重要な内容を含んでいる。時間・空間の構造も,そのなかにある物質によってきまる,と考えたからである。 「物体が重力をうけて加速運動をする。小石に働く重力は地球による万有引力の結果だ。地球が生む重力の影響は相手の物体が小石であろうが人間であろうが,どんな物体にも同じようにおよぶ。だから,これは地球のまわりで考える時間・空間の性質だともいえる。つまり地球に近づく別の物体にはすべて重力として働くように,地球のまわりの時間・空間がそういう性質をもっていることになる。重力という力を考えるかわりに,それに相当した性質を与えられた時間・空間のなかでは,重力以外の力をうけない物体は力が働かない場合の運動と同じになる。だから,物体はあたかもニュートンの法則によって,等速運動をする。すると,投げた小石が抛物線にそって動くのはなぜかということになる。この場合,重力は考えなくてよいかわりに,時間・空間の性質がかわっている点がミソだ。時間や空間についての幾何学が,ユークリッド幾何学やミンコウスキーの幾何学と違っていることを受け入れる必要がある。ユークリッド幾何学では,二2点間の最短コースは直線であるが,いまの場合にも等速運動をする物体は二2点間の最短コースを走る。それが,今度は直線でなく,抛物線になる。これが小石の運動である。そこで,この考えを地球だけでなく宇宙全体に広げるならば,宇宙全体の時間・空間の構造は宇宙にある物体全部の分布できまる。どんな物体も宇宙のなかにあるから,そうしてきまった時間・空間の構造をもつ宇宙のなかを個々の物体が運動することになる。物体があって宇宙の構造がきまっているともいえるし,宇宙の構造があって物体がわかるともいえるわけだ。だから,時間・空間と物体とは鶏と卵とどちらが先かという話のように,いずれが先にあるとはいえない。一般相対性理論は天地と万物とが切り離せない事情をもりこんだものである。  しかし,アインシュタインが考えた理論は,非常にスケールの大きな重い物体に有効なもので,たとえば太陽などでは光の道筋が普通の(ユークリッド的)直線からずれることがわかる。これは太陽が非常に重いからだ。しかし,素粒子は質量も軽いので,重力による影響はほとんどあらわれない。つまり,重力は何の役にも立ちそうにない。そうはいっても,すべての物体がけっきょく素粒子までいきつくとすれば,素粒子と時間・空間との関係においても,重力の理論とたとえ内容は変わってもどこか似通った考えかたができるのではないだろうか」  湯川が李白からヒントを得たのも,こういう理由があった。 「だが,その考えをどのように物理学にしていったらよいのだろうか」  湯川も,その話を聞いていた連中も,まだ糸口をつかめなかった。  宇宙空間の時間・空間の構造は,なるほどアインシュタインの理論のようになっている。しかし,それは莫大な数の素粒子が集まってはじめてきまるものである。個々の素粒子を考えたり,わずかな素粒子が行動している現象をとり扱う場合には,時間・空間の構造は素粒子から何の影響もうけず,ユークリッド幾何学やミンコウスキー幾何学であらわされる筈だ。多くの人々は,こう考えている。しかし,その考えに対して挑戦しなくてはならない。 素粒子剛体説  話を一九五四1954年(昭和二九29年)の夏にさかのぼらせよう。 「君の模型では,素粒子のスピンが出ることはわかる。しかし,それ以外にアイソスピンとか,重粒子数などが導けるというのは,どうも納得できない」 「それじゃ,もう一度説明しますよ。素粒子は理想的に硬い剛体と見なす。すると,その自転には二2通りある。剛体の外に立っている人から見た自転はスピンと判断される。それはよいですね。今度は剛体に乗っている人を考える。これを外から見ると,剛体に乗っている人は剛体と同じように自転しているから,彼自身は多分剛体の自転を観測しないと思うでしょうね」 「その通りだ。だから疑問がでる」 「ところが,そうではない。立場をいれかえれば,外に立っている人が剛体の自転と一緒にまわっているような運動もおこり得る。そのときは,外の人には剛体が自転していないように観測されるが,剛体に乗っている人には運動を知ることができる筈です。おわかりになりましたか」  何か釈然としない顔をしながら,質間者は先をうながす。 「それで」 「だから,二2つの自転のうち,外から見てわかるものをスピン,他方の自転は外からは測れないので,架空の世界の自転とみなされる。それをアイソスピンと考えるわけです。このみかたを三3次元の剛体から,相対論的な四4次元の剛体に広げて,重粒子の数なども導こうというのです」  瀬戸内海が窓の向こうに広がっているH大学理論物理学研究所の一室では,各地から集まった物理学者が激しい討論をくり返していた。議論のまととなっているのは,中野が提唱した素粒子の剛体模型である。素粒子が完全な剛体だといわれても,そう簡単にうけ入れられない。素粒子の自転運動をスピンと考える理論をつくった原チームの面々さえも,はじめは納得しなかった。 「新粒子の分類からわかったように,素粒子は質量,電気量,スピンなどの量以外にいろいろな量,たとえばアイソスピン,重粒子の数,奇妙さなどをもっている。もし,素粒子が点のようなものであれば,それらがどうしてこれほどいろいろな性質をもっているのか不思議なくらいだ」  中野は,これらの性質を兼ね備えた素粒子の姿を追ってみようと思った。 「素粒子は多分大きさをもった粒子であろう。そう考えることによって,非局所場理論は自転運動からスピンを導いた。しかし,それ以外の量を導くにはもっと違ったことを考えなければいけないように見える。スピンは,観測者から見て素粒子が自転している結果あらわれる。ところが,アイソスピンは架空な世界での自転であって,現実の世界の観測者にはその運動は見えない。こういう二つの違った世界の話を,ひとつの素粒子の姿から導くのは大変なことのようだ。 だが,その手はある……」  こうして彼は剛体の運動に目をつけた。 「剛体の運動は重心が動く運動と,重心のまわりを自転する運動とからできていることは力学の教科書に書いてある。剛体の自転運動は,二2つの別の座標系から見られる。ひとつは剛体とは別に固定された座標“ラグランジュ系”で,他は剛体に固定された座標“オイラー系”である。ラグランジュ系とは我々がコマのまわっているのを見ているのと同じ測定方法で,そこでみる自転は現実にまわっているものである。オイラー系とは仮に観測者が剛体に乗ってみるという測定方法の話で,外から確かめられないので現実味にうすいが,そこでみられる自転も確かにある。それは,いわば単に架空的に考えられる運動ともいえる。ラグランジュ系を現実の世界に,オイラー系を架空の世界にあてはめることができるではないか」  中野は素粒子が大きさを持つという考えを一歩進めて,素粒子は剛体である,と仮定した。  素粒子を剛体と見るのと,非局所場によって考えるのとでは,同じ自転運動といっても違いがある。非局所場では自転による角運動量の値は,0,1,2,……といった整数しかとれない。だから,これをスピンと考える場合,電子や陽子がもっているようなといった奇数の半分(半整数)の値は説明できない。素粒子をひとまとめにするといっても,スピンが整数になる粒子(中間子)の組と,スピンが半整数になる粒子(重粒子)の組とでは,別々に考えなければならない。スピンの半整数のものは,まずスタートのは仮定しないわけにいかないからだ。はじめから少なくとも二2つの別の非局所場を考えるというのは多少不満である。ところが,剛体の場合,自転による角運動量は,0,,1,……と整数値と半整数値とのどちらもとることができる。だから,素粒子のスピンが外からの借りものなしでそのまま説明できる。この点では,剛体のほうが非局所場よりすぐれている。  ところが,中野の剛体模型にも欠点がある。それは,スピンとアイソスピンとを二2つの座標系に関係させたために,スピンが整数のときはアイソスピンも整数,スピンが半整数のときはアイソスピンも半整数となる。核子はスピン,アイソスピンであり,パイ中間子はスピン0,アイソスピン1となっているから,この模型に都合がよいのだが,新粒子シグマ,ラムダはスピンが,アイソスピンが0と1,ケイ中間子はスピンが0,アイソスピンがとなって,この模型ではまずい。こういう欠点もあって,剛体模型はそのまま放置されてしまった。  だが,数年たってから,再び人々はこの模型をつつき始めた。素粒子の剛体模型は一挙に捨てられない魅力をもっている。その魅力は,剛体模型を何とか完全な素粒子のイメージに直そうと望む人々をひきつけた。弾性体模型,回転粒子模型,ジャイロ模型,エーテル模型といったいろいろな考えかたが生まれはじめたのである。 点で問題にならない  一九六四1964年(昭和三九39年)春,京都で開かれた学会の会場では盛んに爆笑がわいていた。 「素粒子は,質量,電気量,スピン,アイソスピン,奇妙さ,重粒子の数など,いろいろな性質をもっている。なぜか。これは神様が与えたものだから,信じなさい。そう考える方は勝手にそう思っておられてかまいません。私は神様はきらいです」 「神様がきらいとすれば,素粒子がなぜそういう性質をもつか考えなければならない。ところが,素粒子は点であるという。これでは“てん”で問題にならない」  湯川はこんな冗談をいいながら,彼の新しい試みを話している。それは非局所場の理論に関するものであった。すでに,莫大な種類の素粒子の発見が報告されている。そして,それらはいろいろな量で分類される。二十20世紀のはじめ,原子スペクトルに直面した物理学者は,それを分類するための量を考えた。それは量子数といわれたが,結局原子内の電子が空間的にどんな運動をするかで求まる量であったことが,量子力学が作られて明らかにされた。だが,素粒子を分類する量が何に原因するものか,まだ誰も知らない。坂田模型が口火を切ることになったこのような量を扱う代数学,つまり対称性の理論が大流行しているが,それもこの問いに答えるものではない。素粒子にこういう対称性があるといっても,なぜそうなのか答えられないからである。 「すべての素粒子の性質は,けっきょく素粒子がもっている時間・空間的な構造によって説明されるであろう。そして,そのような構造は最終的には時間・空間そのものの構造に結びついているに違いない」  こう考える湯川にとって,現状は大変不満なものであった。  素粒子の質量とスピンとパリティとを別とすれば,その他の性質は見たところ時間・空間とは無関係に思える。しかし,それは見かけのうえの話である。中野はすでに素粒子の剛体模型を使って,スピンと同じようにアイソスピンが回転運動から考えられることを示した。その解釈は十分でなかったけれど,彼の発見は重大であった。湯川は,この問題をもう一度非局所場で考えようとした。非局所場は素粒子の中心を定める座標のほかに素粒子の内部の様子をあらわす相対座標をもっている。相対座標も,座標系が変わると値の変化する量である。しかし,相対座標の長さは変わらない。彼はこの事実を用いようとした。 「アイソスピンが時間・空間と無関係に見えるのは,座標系が変わってもその値が変化をしないからである。すると,アイソスピンをあらわす量がたとえ基本的には時間・空間の量で作られていても,座標系によって変化をうけず,またアイソ空間で回転という性質さえもっていればよいわけだ。相対座標とその相手の運動量から,この性質をもつものを作りあげていけば,結局アイソスピンが時間・空間から導けることになる」  彼はその努力を始めた。素粒子と時間・空間とを結びつけるひとつの道だった。 「アイソスピンも非局所場によって,素粒子の時間・空間の構造から説明できる」  これが湯川の到達した結論だった。非局所場の理論でとりだしたアイソスピンは,剛体模型のようにスピンとの関係は強くない。だが,こうしてつくったアイソスピンが本当に素粒子の現象で有効に働くものかどうか……。湯川は片山・山田と共同戦線をつくった。 「素粒子の各々についてアイソスピンを定義することができても,素粒子が集まって反応する場合に,全体のアイソスピンが相互に変化を補いあうという事実が理解できなければ,これは絵にかいた餅に等しい。局所場の場合はあたりまえに仮定されていることだが,それは説明されなければならない」 「その通りです。そういうことを調べて見ますと,素粒子のアイソスピンが相互に関係しあって勝手に動かないためには,理論的にそれらをそろえる基準が必要になることがわかります。丁度信号があるから交通整理ができるようなものといえましょう」 「多分,その基準は,時間・空間のなかに考えられるだろう。つまり,時間・空間の構造のなかに全体を支配するような基準になる向きが必要になってくる。素粒子の時間・空間的構造の問題は,時間・空間自身の構造にさかのぼることになる」  その鍵は何か……。 万物の問題  ここで再びまえにもどって,話を素粒子と時間・空間との関係にかえそう。一九六〇1960年(昭和三五35年),田地はひとつの突破口をつくった。 「よく考えて見ると,素粒子と別に時間や空間がある筈はない。これは,空間の位置や時間間隔の尺度をきめる問題からも想像がつく。長さ,つまり物差しの単位をきめているのは,クリプトン原子の放出する光の波長,時間の単位はセシウム原子の吸収する周波数による。その場合,原子のなかの電子が運動状態を変えるという現象があって,われわれの時間や空間の尺度がきまってくる。それからすれば,長さとか大きさの最終的きめ手は素粒子であるし,時間の間隔をきめるもとは素粒子の変化や寿命になるであろう」  こう考える田地は“時間・空間のない理論”というのを作った。時間・空間の考えを全然用いないとすれば,大変奇妙であるが,そう主張しているのではない。 「時間や空間がまずあるのではなくて,素粒子がいろいろな行動をする結果として,空間の大きさとか時間の経過とかという概念が生まれてくる」  つまり,彼がねらった点は,このような原点にかえってスタートすれば,いままでと違った時間・空間と素粒子との関係が求まるかも知れないというところにあった。  そして……一九六六1966年(昭和四一41年)。  湯川はふたたび李白の逆旅の思想に立ち戻ろうとしていた。彼の手にはその考えを具体化するいくつかの鍵がにぎられている。 「素粒子は点状ではなく,時間・空間的な大きさをもっていると私は思う。それを具体的にとり扱うために,非局所場を考えたわけだが,これはスピンの違った素粒子をまとめて考える長所をもっている。それだけではなく,素粒子の別の性質,たとえば,アイソスピンも説明できる。しかし,そのためには四4次元世界に特定の向きを考えなければならないようだね」  湯川は山田・片山らの協力者に語った。 「そうかも知れません。しかし,別の手もあります。つまり,特定の向きのでてこないようにしてなお素粒子を区別するいろいろな量を導くには,高林さんやわれわれが試みたようになりますね。いままでの非局所場は時間・空間の二2組の座標を含んでいたのですが,修正した非局所場は四4組の座標をもっています。確かに,奇妙さや重粒子の数まで説明しようとすれば,この修正が必要でしょう。三3次元の世界では三3組の座標で剛体の位置がきまるように,四4次元世界での物体は四4組の座標で定められるので,これは幾何学的な素粒子の模型として適当なものに思われます」 「しかし,これもまだ不満足ですね。この模型でも半整数のスピン値が導けません。これでは,素粒子のもつ性質全部が時間・空間的な大きさから説明されたとはいえません」 「半整数のスピン値を説明するには,剛体模型は一つの例になるでしょう。原さんと後藤さんとは,この模型を検討し,中野さんがアイソスピンと解釈したところから,重粒子の数を引きだしています。そのうえ,剛体を弾性体に修正して,アイソスピンと奇妙さをも導く試みもしているようです」 「非局所場の拡張と素粒子の弾性体模型とは,どちらにも長所,短所があるね。スピンを導くという点では弾性体模型に軍配があがり,そのほかの量を引き出す点では非局所場に分があるように思われる。だが,双方に共通して不可解な点は,双方ともに,素粒子とは,もともとある弾性体や非局所場の励起されたもの……と解釈していることだね。では,もともとの励起しない弾性体や非局所場とは何だろう。素粒子は生成・消滅する。その時,励起しない弾性体や非局所場は生成も消滅もしないとすれば,それらは素粒子がそこにあるなしに関係なく,存在し続けなければならないものになるだろう。つまり,エーテルのようなものだと考えられるね」 「非局所場が半整数のスピン値を導けない理由は,それが質点の集まりに似ているからです。力学の教科書には,質点を数限りなく集めると剛体や弾性体ができるように書いてありますが,“数限りなく”というのが曲者で,質点の集合と剛体のような連続体とは違っているのじゃないかと思います。スピンを引きだすのには,連続体の考えがどうしても必要ではありませんか。  弾性体がスピン以外の性質をだすのに厄介なのは,弾性という性質が複雑で,しかも非常に小さな対象では弾性のどの性質が残っていてどの性質がなくなるのかはっきりしていないからです。その点ではわれわれの非局所場の模型のように,物質的な対象でなく,幾何学的な対象を考えれば簡単な話になると思うのです」  こういうやりとりを交わしながら,湯川の頭のなかでは,“エーテル”とか,“連続体”とか,“時間・空間の幾何学”とかいう言葉が三つ巴となってまわっていた。それらは,いずれもひとつの対象を指しているように見える。三つの性質をそなえたもの……それは時間と空間そのもの以外にはない。万物の問題は,いま天地の問題にかえろうとしていた。 分割できない天地  素粒子とは一体何であろうか。その昔,ギリシアの自然哲学はいろいろな推測をした。そして原子という考えに到達した。彼らの考えた原子は,現代の科学でいう原子ではなくむしろ素粒子に近い。デモクリトスは,原子を考えるにあたって同時に空虚を仮定した。彼は“ある”と“ない”とを区別したかったのである。原子は“ある”の部分を占め,空虚は“ない”の部分に相当している。原子はこれだけで十分であったので,これ以上わける必要もなく不可分割という性質が加えられた。  現代の素粒子はどうか。多くの物理学者達は素粒子を点状のものと考えているから,分割できないという言葉は意味がなくなっている。それにもかかわらず,その素粒子にありとあらゆる性質をつけ加えようとしてきた。彼らの大部分は,点状のものがそんなに沢山の性質をもつのは奇妙だと思っていない。それも理由がある。素粒子は簡単に生成されたり消滅したり,別の素粒子に変化するからだ。点状の粒子であれば,生成・消滅の性質をもたせることは簡単である。  素粒子に点状のイメージを考えているだけではどうにもならないと考えた数少ない人々は,主流からはずれて素粒子の大きさや構造を問題にしてきた。そうなると,素粒子の生成・消滅や変転の問題にいやでも直面しなければならない。素粒子の構造といっても,それがまた点状の構成粒子からできていると考えるならば,話はもとにかえる。まだ分割できるからである。 「素粒子が本当に大きさや構造をもつ場合,特定の大きさや構造をもつものが,全くその痕跡のない時間・空間のなかで,突然あらわれたり消えたりできるであろうか。たとえば,素粒子はある大きさをもっているとする。そこで消滅して,また新しく生まれる。その場合,全く違った大きさのものに生まれかわらないとは誰が保証できるであろう。原子に不可分割性を考えたギリシア人は,原子が消えたり生まれたりする事実を考えないでよかった。素粒子では不可分割性はもっと深刻な問題になる。しかし,この場合にも,デモクリトスの“ある”と“ない”,原子と空虚という単純明解な論法が役立ってくる。もし,時間・空間が分割できない領域の集合である,としたらどうなるか。生まれる素粒子も消える素粒子も,その領域以下にも以上にもなれない。領域は“ある”か“ない”か以外には,部分的に占められても,超過してつめられてはみだすこともない」  湯川はこうして分割できない領域,つまり素領域の考えに到達した。  いままで,時間・空間は隙間なくどこまでもつながっているものと信じられている。一部の人は,時間・空間を結晶格子や蜂の巣のようなものと考えたが,余り都合よいものでなかった。戦争前,三村グループは時間・空間を波動場と考える試みを精力的に進めたが,それも単純な枠組からでられなかった。しかし,時間・空間が非常に細かいところまできまっているというのは,考えすぎであることを田地は結論した。素粒子の世界では,素粒子にふさわしい時間・空間の構造を考えるのは当然であろう。 「分割できない素領域からできている時間・空間というのは,素粒子の大きさより小さな領域での時間・空間が意味をもたないものといってもよい。これは素粒子の側から考えての話である。逆に時間・空間のほうからいうと,次のようになる。ある瞬間の空間には素領域がちらばって存在している。素領域のひとつに一定のエネルギーが加わると,それは他の素領域と区別ができ,素粒子と見える。次のへだたった時間ののちには,別の素領域のひとつにエネルギーが加わっている。すると,素粒子はもとの素領域からそこまで移動したことになる。それは丁度電光掲示板の明滅に似ている。素領域は天地の逆旅である。もっと詳しくいえば,ホテルの部屋である。ホテルにとって,客が誰ということは大したことではなく,ルーム・チャージを払っていただくかぎり誰でもよい。素粒子はどんな種類によらず,素領域に宿り,翌朝出立していく」  一九六八1968年(昭和四三43年),湯川,片山,梅村は,この考えに沿って,四4次元世界での素領域理論をつくった。ようやくひとつの峠に達したのである。しかし,世界の学界はまだそれをうけ入れてはいない。これからの問題である。 統一への道 「この頃また素粒子の統一理論という言葉をよく聞くのだが……たとえば,ハイゼンベルク教授の宇宙方程式もそうであったが,湯川博士の素領域理論が新聞をにぎわせている。われわれ,素人目には次から次へといくつも統一理論ができることさえ不思議だが……」 「なるほど。それじゃ事情を話そう」  そういってZ博士はA記者に向かいあった。 「少し前,つまり一九五〇1950年代は新粒子の時代であった。新しい素粒子がつぎつぎと発見され,科学者たちはとまどいを感じた。多くの人々はいままで通りに素粒子ひとつひとつを追いかけようとしていた。どの素粒子についても,しらべなければならないことは山ほどある。だが,わずかではあるが,次の段階への準備をしようとしている人々がある。彼らの考えかたやりかたはそれぞれ違っていたが,共通していた点は,ばらばらに見える何種類もの素粒子がひとまとめにとり扱えるに違いない,と考えたことである。  湯川が非局所場による素粒子の統一理論を提唱した翌年,ハイゼンベルクは非線型場を根源物質とする統一理論にスタートし,一九五八1958年(昭和三三33年)には宇宙方程式を提唱した。一九五六1956年(昭和三一31年)に坂田模型が,一九六〇1960年(昭和三五35年)には名古屋模型や中性微子模型が生まれた。最初それらに批判的であった人々も,一九六〇1960年代にはいって莫大な数の素粒子の共鳴状態が発見されるようになると,こういう試みにそう冷淡になってはいられない。そうして,ゲルマン・ネーマンの八道説やチューの靴ひも理論やレッジェ理論を追いはじめた。これらの試みは,考えかたのうえではそれ以前の理論の亜流ともいえるのであるが,より経験事実に密着しているという魅力をもっていたからである」 「そうすると,現在の統一理論はそういうところに進んでいるのか」 「そう考えている人もある。しかし,それもおそかれ早かれより基本的な立場にもどっていくのではないだろうか」 「つまり,基本的な立場という点では,湯川博士やハイゼンベルク教授や坂田博士の考えのほうが広いというわけか」 「湯川の考えによると,いろいろな素粒子は,非局所場という一種類の量がしたがう方程式の,いろいろ違った解によって与えられる。それらの解を区別するのは,時間・空間的な構造の差である。だから,素粒子を区別するいろいろな量,たとえば質量,電荷やアイソスピン,奇妙さなどは,結局は時間・空間の量から導かれるものになる。それをさらにさかのぼれば,時間・空間に原子性をもたせるべきだというのが,素領域理論の考えかただ。  方程式の違った解からいろいろな素粒子が導かれると考える点では,ハイゼンベルクの理論も似ている。しかし,彼の場合には素粒子が時間・空間的な構造をもっているとは考えない。素粒子は互いに他の素粒子からつくられているという関係から,いろいろな素粒子が根源物質を材料としてきまってくると主張する。だから,彼の理論では素粒子の相互関係を与える非線型方程式が重要になる。これを更に徹底させると,靴ひも理論が登場してくる。チューが“靴ひも”と名づけたように,素粒子は,編みあげ靴のひものように,別種の素粒子がからみあって作られていると考えてもよい。核子はたえず別の核子とパイ中間子との組に変わりながら存在し,パイ中間子もたえず核子と反対核子との組に変わっているからである。そう見れば,素粒子をあらわす場の量は,別の素粒子の場の量できまるから,これを追いつめれば場の量の間の関係だけが重要になり,場の量そのものさえも必要でなくなる。つまり,根源物質など考えずとも関係式を与える関数の特徴だけおさえればよいという“場を考えない理論”が生まれてくる。その場合,この関係式の特徴として素粒子の存在がきまるということになる。しかし,本当に頭から関数関係だけをおさえることができるのだろうか。ハイゼンベルクでさえ,もう少し素粒子の背後に立ち入って考えなければならないと思っている。  湯川の考える素粒子の構造よりも,もっと具体的な形でそれに立ち入ろうとするのが坂田模型である。この理論では素粒子の構造が,即座に時間・空間できまってしまうまえに,まず,素粒子をつくっているであろう基本粒子の組で与えられると考える。湯川は素粒子の問題の最終の答えを一挙に求めようとするのに対し,坂田はまず基本粒子に問題をしぼり,次に基本粒子のさきに何かあればそこに問題をしぼるというように,次々に答えの範囲をせばめていこうとする。  湯川と坂田とは中間子論を共同してつくりあげたが,素粒子観では全く違っている。ハイゼンベルクも,湯川が中間子論を提唱するきっかけを与え,坂田に模型を考える道へ進ませる感激を与えたが,また二人とは別の哲学をもっている。素粒子の統一への道は,まさに戦国時代の天下統一にもたとえられる。どの考えが真実のゴールにとびこむか,まさに,これからの勝負だ」  A記者はやっとわかったかのように,結論を出した。 「つまり,素粒子論の世界でもまだこれから若い人々が活躍できる余地もあるというわけだね。どうもいろいろ有り難う」 10 素粒子論は何を教えるか ------------------------------------------------------------------------------- スタートにかえること——友人への手紙——  A君。  いつか君にお約束したように,素粒子論はなにをねらっている学問かという答えを出そうとしてこの本を書いてみました。果たして,君の要求に答えているかどうか,かえってわかりにくいものになったのではないかと心配しています。  多分君は,この本で素粒子論のねらいを何となく感じられたことでしょうが,それと同時に,それに向かっての歩みのおそさと,いつまでも答えがでそうもないのにやきもきしたことでしょう。もっと近道がありそうなのに,ときには反対の道を歩むように見えたり,ときには藪の小道に迷いこむように思われたりしたかも知れません。私たち研究者でさえもときどきそんな錯覚を抱くことがあります。  二十20世紀の初頭,原子の姿がはっきりしたとき,多くの人々は量子力学という奇妙な言葉をつくらなければなりませんでした。当時はそれも大変なことだったでしょうが,手にある材料は,光と電子だったので,自然の根本に近づく道は割と簡単そうに見えていました。だが,原子核に一歩足を踏み入れると,全くおもちゃ箱をひっくりかえすような結果になりました。  現在の私たちは原子物理学の時代と違って二2つの複雑な問題を与えられています。ひとつは,新しい現象のなかでこれからさきどんな奇妙な材料が出てくるかわからないといった未知の要素をもっていること,もう一つは,それらの材料を含めてどんなしくみが自然の根本にあるのかを求めなければならないということです。いろいろな現象すべてを素粒子という言葉にあてはめて法則をつくろうとする立場からすれば,新しく発見される現象も基本的には素粒子から考えなければいけません。その場合に全く未知の素粒子があらわれないとは保証のかぎりでないわけです。この事情まで考えにいれて自然の法則を用意しなければならないのは,大変無茶な話だと言われそうですね。  しかし,わかっている経験や材料だけにしか使えない法則や体系を作ることだけでは,科学では何の意味もありません。どんな法則や体系でも未知の現象にあてはめられる力をもつことでその意味が出てくるのです。まして,自然の基本的ななりたちを探る素粒子論の法則は,未知のものすべてを原則として説明できるものにならなければ困るわけです。  素粒子論は新しい経験や材料にぶつかるたびに,それを含んだ考えの筋道をたてる必要からもう一度スタートにかえって出直さなければならないという運命をもっています。ここまでは絶対に正しくて,これから先を修正すれば済むというやり方は,たまに成功する場合もありますが,元来とれないものです。  まえにお話しましたが,ディラックが物質の生滅の考えにいきつくまで,彼は電子の存在する確率はつねに一定になるという前提から出発したのですが,最後に到達した答えでは電子は消えたりあらわれたりするので,その前提は全く意味がなくなって確率の波の考えからはなれてしまいました。そこから量子力学と非常に違った形をとる相対論的量子力学が生まれました。ディラックの電子の相対論的方程式はこのきっかけを作り,陽電子の発見がこれを決定的にしたわけです。ところが,いろいろな素粒子の共鳴状態が登場してきた今日では,ディラックの方程式で素粒子が記述できるのかどうか再び疑問が生まれてきます。そのかわりになるもっと基本的な方程式があるのではないかとも言われています。素粒子論の歴史がはじまった最初の足場についてさえ,新しい事実のまえにはスタートから出直す必要もおこりますから,それ以後の問題についてもなおいろいろな変転がつきまとうことは容易に想像がつくだろうと思います。だからときには道をひき返すように思われることが,本当はより正しいものに近づくために必要なわけです。  しかし,これは素粒子論にかぎることではなく,おそらくすべての学問が多かれ少なかれそういう性格をもっているのではないでしょうか。さらに,学問に限らずすべての問題においてもそうではないかとも思います。それがより基本的な問題であればあるほど,新しい経験や知識によって,今までの考えかたの価値がくつがえったり,あらためてスタートから考え直さねばならぬことがおきるものです。“原点にかえる”という言葉が使われるのもある場合には大変必要なことです。そのことがあるからこそ,その学問や考えかたは若々しい生命をもっているともいえます。  しかし,実際に私たちは長い年月積み上げてきた考えかたを早急にすててスタートにかえることは簡単にできないのではないでしょうか。新しいものを何とか今までの考えの延長の上でとり扱おうとし,それが不可能ならばそれに目をつぶろうとします。学問や考えかたに老化があらわれる原因の大部分はこれです。素粒子論も若い学問ですが,いつでもこういう老化の危険をもっています。いままで完全に見えていた古典物理学について根底からの問いかけがなされ,相対性理論や量子力学が登場してからまだ五十50年くらいしか経過していません。素粒子論の年齢はそれよりもっと若い筈です。ところが,それが本当に若いかどうかについてはその内容にまで立ち入って問題にしなければなりません。  この本でお話したかったことは,そういう若々しさでした。しかし,今までそうであったからといって,これからも同じであるというわけにはゆきません。次の年代の人々が,どんなふうに素粒子論の若々しさを保っていくか,君もゆっくり見ていて下さい。 正しさと間違い——物理学を志す学生への手紙——  B君。  物理学を専攻しようとする希望をもって頑張っておられることと思います。私はこの本をぜひ君にも読んでいただきたいと思って書きました。もちろん,これは君にいろいろな知識を与えようとして書いたものではないので,教科書のような役を果たしてはくれないでしょう。そのかわり,教科書では見られない物理学の素顔を知る一助にはなるでしょう。君が物理学者になるならば,そういう素顔に接するほうが多いことだろうと思ったからです。  君はこの本で物理学の成果にたどりつくまでの人々の努力を,そして失敗や不完全なために教科書に書かれていない多くの努力があることを知ってほしいと思います。そのことは君が研究を行なうようになった場合にきっと役に立つと信じます。私たちが物理学の前線に立った時,しなければならないことは,いままで確立した法則や体系のうえに誰もが発見していない何かを新しくつけ加えることです。多分君は,その状況では最も有効な手を考えようとするでしょう。その通りです。しかし,その有効さについて誤解が生まれます。それは有効であるというのは次に求める解答についてであって,いままで得られた法則に対するものではない点です。未知のものに対する有効な手について,方法論を強調する人もいますし,その方法論の有効さについてはここでのべません。しかし,大切な点は何にでも通用するような万能な方法論がある筈がないことです。それがあれば問題は簡単です。ともかく,最終的にはひとりひとりの研究者が独自に何らかの有効な手段を探さなければならないでしょう。それを方法論という形に整理するしないにかかわらず,単純に教科書に書かれている材料だけにたよって手段を求めるのは選択にかぎりがあって,方向を間違うおそれがあるでしょう。教科書にないことの多くは失敗や不完全なものだったのですが,それは今までの成果にだけそういえるものです。新しい未知の問題については,成功例も失敗例もすべて同じように貴重な足がかりとなるのです。人間である以上,きまっていつも最良の手をうち,輝かしい成果を得るとはいえません。むしろ,非常に限られた人が成功しているに過ぎず,またその人々も長い年月失敗を重ねているのが事実でしょう。反対に,人間が真剣に考えたことは,どこかに正しい面をもっていて,ある時点で虚しかった努力に思えても,長い時間のあとではそれが最良の答えである結果がでてくることもあります。  中間子論がつくられた直後,中間子が0のスピンをもつよりも1のスピンをもつほうがよさそうに見えました。ところが,実際に見つかった中間子のスピンは0であり,その時点でスピン1の中間子への試みは消えました。しかし,現在ではいろいろな中間子が発見され,多くの現象ではスピン1の中間子のほうが重要な役割を演じているようです。十10年の年月で評価するのと,三十30年の長い範囲で考えるのとでは話は違ってくるものです。学問は発展するものですから,一面的に判断をするのは危険です。  私たちよりも若い世代の研究者は,この本で書いた素粒子論のたどたどしい歩みなどはもはや一瞬におこったことのように感じている様子です。私の世代ももっと年配の世代から見ると歴史の長さを感じていないのかも知れません。量子力学の出現という物理学の大革命を経験した世代と,それを講義や教科書で習った世代とは確かに考えかたが違っています。素粒子論の枠組がつくられてきた時代を経験した世代と,それをまとめて教科書から知った世代ともまた違っているでしょう。学問の変革について,私たちの世代は理屈でわかっても実際にその経験がないために,でき上がったものを簡単にすてられない傾向が抜けきれません。もっと若い,たとえば君の世代になるとどういうことになるでしょうか。おそらく,私たちよりも今までの学問をもっと強固なものに感じるでしょう。それは圧縮されすぎた歴史が重さをあたえるからです。  歴史を学ぶのは,歴史的な事実を知ることではなくて,現在にとってどんな鍵がそこにあるかを探ることではないでしょうか。過去は現在を通して未来に投影されてこそ意味をもっているのではないかと思います。だから,過去にどんな重要な事実があるかが必要でなく,そのなかでどんな考えが自分に役立つかが大切なのでしょう。  素粒子論の研究には,流行というのがあります。どんなものにも流行があるし,流行のたどる運命は似ています。君が物理学を研究しようとして最初にまずぶつかるのは,この問題でしょう。流行のトピックを研究していなければ一人前の研究者ではないという錯覚が生まれるかも知れません。そうして流行はまたたく間に去り,また別の流行がくるでしょう。私は流行をつくる人々には敬意をもちますが,流行を追う人々の創意のなさには感心できません。流行にしたがうのは確かに歴史のなかから最も安易な選択ができる方法のひとつです。しかし,それは自分がえらんだものではなく,まわりの人々がえらんだという意味しかもっていません。そういうやりかたで創造的な仕事ができるとは思われません。もし君が研究者になるなら,もっと大きな目でいろいろな可能性を探っていただきたいものです。  もう一言つけ加えます。私たち素粒子論を研究するものは,最終的な答えとして量子力学の体系をこえたものがあるだろうと考えています。だから,量子力学を使いながらもその結果を全面的に信用してはいません。しかし,それまでは量子力学を充分活用しようとしています。そこから出発しなければその彼方にある結果さえ得られないことも知っているからです。  最近,学生諸君から,二つの極端な意見を聞いてびっくりしました。甲君は,“量子力学が将来こわれるのなら,私たちはもう習う必要がないのではないか”というのです。乙君は,“長い古典物理学の歴史を根本からくつがえしたという意味で,量子力学は大理論に見えるが,それが完成して十10年もたたないうちにもう量子力学が成りたたないという意見が登場するのを見ると,量子力学は余り使えないようで,大した理論とはいえないように思う”と疑問を語りました。  甲君も乙君も間違った考えかたをしていることは,ここで書いた話から君にもわかっていただけると思います。また近いうちに充分お話をしたいものです。 現代の学問——ある若者への手紙——  Cさん。 “素粒子論は世の中のためにどれだけ役に立つのか”という貴方の質問に対して,この本は満足な答えになったでしょうか。素粒子論をつくろうと努力する人々の姿をえがくことで間接にお答えしたいと思ったので,幾分わかりにくくなったかと心配しています。  この答えでは,“学問のための学問”とか,“専門バカ”の話にすぎないとお叱りを受けるかも知れませんね。しかし,私は本当の学問をすることは決して間違っていないと思っていますからそれを強調したかったくらいです。現代では本当の学問をすることは大変な努力と勇気を必要とします。むしろそうすることを積極的に強調しなければならないようにさえ思われます。だからといって学問らしいことをやっている人をすべてよう護する積もりはありません。学問の名をかり学者という立場を利用して学問と全く縁のない問題にかかわる人が多いからです。学者はふつうの意味では,政治家でも,資本家でも,評論家でもありません。政治だけに興味をもつ学者,資本の代弁をする学者,評論することだけに終始する学者というのはありようがない筈です。  それでは,学者は政治や社会の問題に,産業やその波及する問題に,文化や思想の問題に盲目であってよいかといえば,全く逆です。それらは,本当の学問をしていくためには欠かせない問題だからです。この本で貴方は,現代の自然探求は国家の政治・経済に関係する規模になっていることを知っていただけたと思います。また,戦争によって生じた世界の断絶が学問の進歩をおくらせ,逆に平和の到来によってどのような華々しい展開が行なわれたかをわかっていただけたと存じます。学問を進めるためには,学者自身もこういういろいろな問題に積極的になることも必要です。  確かに過去においては,こういう問題すべてに盲目になって学問する人もいました。また現在でもそれで全力投球ができるのが学問をする人々の理想だろうと思います。しかし,過去の時代よりも現代では,その理想は簡単に実現しにくくなっているのも事実です。それは,学問,とくに自然科学と,その結果となる技術が人類に与える影響が過去に較べるとはるかに巨大で直接的になっているからです。学問とその結果とは別だと考えても,過去においてはそのひずみは最小限にとどめられましたが,現代ではそういうわけにはいきません。本来,学者は学問の結果にも責任をもつべきであって,その責任をとることではじめて本当の学問を進めることができるものです。そういう姿勢はすべての学者が多かれ少なかれ持っていなければなりません。  学問論になってしまいましたが,素粒子論のことに入るにはぜひわかっていただきたい問題だからです。ズバリいって,素粒子論は他の科学や技術のように実際生活にすぐ役立つものではありません。もちろん,間接には素粒子論で見つけられた考えかたは,他の科学や技術のなかにとり入れられ,実際に役立っているのですが,そのことはいまは申し上げません。実は,このような直接役立たないという性格が大切な点ではないかと思います。それは,その性格によって余計なまざりものの入らない学問のありかたを示すことができるからです。このようないいかたをすると,物理学帝国主義とか素粒子論至上主義だという人がいますが,私は他の学問より素粒子論がすぐれていると思っているわけではなく,逆に他の学問が本当の姿に成長することを願う意味で,素粒子論の成功も失敗も必ず別の学問の参考になればと考えます。  学問は芸術と共に,人類がもつことのできるすぐれた知的活動です。将来人類がどのような方向に進むとしても,人間であることをやめない限り,このような知的活動は最後まで残るでしょう。科学技術と産業が健全にのびるならば,将来の人類の物資生産は飽和し,その活動の割合が減少することは間違いありません。地上においてすべての人間が同等の権利をもつような政治形態が実現するなら,闘争手段に訴える割合も少なくなるでしょう。その理想的な時代では,人類は知的な要求を満足することが最大の目的となるでしょう。私達はその日が実現するように努力する必要があると同時に,学問の正しい姿を保ち続けねばなりません。これら二つのことは簡単に切り離せない問題です。だから,素粒子論の社会における役割は,大げさにいえば人類の理想を実現する導火線ともいえるでしょう。  自然を根本的に支配するものはなにかという問いかけは,人類が知的活動をはじめてこのかたずっと続けられています。私たちは未来に向かって現代の答えをできるかぎり探していかねばなりません。しかし,それに直接にしたがうことだけが重要ではありません。その答えを求めるということは人類の共通の財産であるわけで,そのためにはこういうことが健全に進められる現代の長所を,もっともっと広げていくこともすべての私たちに課せられているのではないかと思います。  ではお元気で。お互いに頑張りましょう。 ●片山泰久(かたやま・やすひさ) 一九二六1926年、長野県に生まれ、松本高校から京都大学理学部に入る。湯川秀樹博士の愛弟子となり、素粒子の統一理論に挑戦する気鋭の物理学者として、湯川博士との「素領域」新理論の共同研究など、国際的にも高い評価を受けた。理学博士。一九七八1978年一1月、現職の京都大学教授のまま惜しくも逝去。 * 本書は,一九七一年三月,講談社ブルーバックスB‐167として刊行されました。 本書は,1971年3月,講談社ブルーバックス(B-167)として刊行されました。 素粒子論(そりゆうしろん)の世界(せかい) 物質(ぶつしつ)と空間(くうかん)の窮極(きゆうきよく)に挑(いど)む *電子文庫パブリ版  片山(かたやま)泰久(やすひさ) 著 (C) Sumie Katayama 1971 二〇〇一年十二月一四日発行(デコ) 2001年12月14日発行(デコ) 発行者 野間省伸 発行所 株式会社 講談社     東京都文京区音羽二‐一二‐二一     〒112-8001     e-mail: paburi@kodansha.co.jp 製 作 大日本印刷株式会社 本電子書籍は,購入者個人の閲覧の目的のためのみ,ファイルのダウンロードが許諾されています。複製・転送・譲渡は,禁止します。